2024/8/22木曜日
4時に起床し朝食作り。
5時に畑へ。
いつも水遣りに使っている田んぼの用水が稲刈りに備え止まった。
今朝はカートにポリタンクを2つ載せ徒歩で押して行った。
恒例のミニトマト撮影。
枝豆がマジで枯れてきた。
今日はにがり水を振り掛けた。
6時過ぎに帰宅後、シャワーと洗濯。
そして、ベランダガーデニングでは種蒔き。
種蒔きした育苗ポットに緑色の液体を撒かれるので写真撮影しておく事に。
やる事やったら10時半。
最新情報をチェック。
すると、ウクライナがロシアのクルスクを攻撃、とあった。
しかも、まーた多くの民間人を標的に。
ウクライナはいつまでやるのか?
お金無いて言ってた割には武器イパーイも持ってる。
戦争する余力あるのな。
日本からの支援要らないね。
次に読書。
昨日に引き続き本多正信本。
1575年5月、長篠で武田軍を粉砕した信長は8月に越前の一揆討伐を全軍に指令。怒濤のように木の芽峠から攻め込んだ織田軍団は瞬く間に越前府中(福井県武生市)を制圧。殺された老若男女は3,4万人に及んだ。→民間人を殺戮とか、信長残忍やな。
本願寺上層部は和議を申し入れ信長は受け入れた。本願寺方は義昭将軍を毛利領の鞆津に脱出させ毛利家を口説いて貰った。更に、累代の仇敵同士の上杉謙信との仲立ちを依頼。
毛利と同盟した本願寺方は三度戦端が開かれ第三次石山合戦では毛利家は水軍7,800艘の大船を木津川の河口に送り織田方の阿波水軍300艘を撃破。10万石に及ぶ兵糧を本願寺に運び入れる事に成功。が、毛利は一兵たりとも駐屯させなかった。12月、本願寺は下間頼純を加賀に下向させ本多弥八郎も付き添った。
1578年本多弥八郎が立て籠る加賀・黒谷城に悲報が齎された。「謙信死す」←確か卒中で死去。暗殺よ。
謙信が本願寺と結ぶに至ったのは信長が越前侵攻で信徒衆を根切りにし加賀2郡を切り取った事が起因のよう。
信長にとって謙信の登場は前門の虎・信玄が死んだところに後門の狼が吠えたようなもの。これで信長は上杉軍が京都に上洛しないよう近江の安土山に城を築いた。
この当時の加賀国は「百姓の持ちたる国」と言われている。両者の戦いは謙信の祖父長尾能景が討ち死にする程激しく、孫の謙信まで続く程長い。「よりによって上杉謙信に救援を求めるとは何事!」と叫ぶ門徒衆、地侍衆が渦巻いていた。
翌天正5年閏7月、謙信自ら越後を出発。信長は柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀らを加賀に派遣。が、秀吉は持ち場を離れ帰国。9/15, 七尾城を陥落させた謙信は怒濤の勢いで南下。加賀の手取川畔に駐屯していた柴田軍1000名を討ち取った。そして、信長の許へ使者を遣わし「来春3/15に越後を発ち上洛するから一戦の勝負を以て雌雄を決せん」と決戦を申し込んだ。それに対し信長は「安土に城を構えたのは折々京に遊びに行くのに便利な為であって決して謙信殿の上洛を妨害するものではありません。来春ご上洛とあれば扇子一本腰に差し一騎乗り入れにて降参申し都までご案内申し上げましょう」と返信したそうだ。
信長が謙信を恐れめっちゃ贈り物を献上した、という話は色んな本で読んだ。
今日はここまで。
12時を過ぎ食事をしようと立ち上がると腰に激痛。
実は帰宅直後から腰にビリビリ電磁波攻撃を受けている。
目的はわいの畑への水運搬を阻止する事。
何せ自分は警察署に「危険人物」と見なされ国から一億円の予算がついている。
そんな防犯パトロールの対象であるわいが毎朝日の出と共に歩いて畑へ水を運び水やりをしている。
そして、日中は孫達と遊んでる。
そんな善良な庶民がCIAの工作員達(日本人)によって集団ストーカーされている。
おかしな世の中よ。
どうしても畑への水運びを阻止したくて
ずーーーーっと腰に攻撃。
お昼を食べたら、午後は孫遊び。
17時半に帰った。
18時半から夕食。
さつま揚げ、梅奴、ローストポーク、昨日のサラダ、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
お皿を洗ったら営業終了。
読書をしてから寝ることに。
歩数計は8965。
歩数計をアプリでチェックすると繋いでいる筈のWi-Fiやブルートゥースがオフになってる。
一体誰が何の権利でわいのスマホの設定を勝手に変えてるんだ?
人のスマホを勝手に使うなコラ。
他人のふんどし使っても平気な輩か?
あと、いつまでもしつこく腰を攻撃すんな。
それ、傷害罪な。
もし病院行く事になったら治療費の請求先はCIA?
それとも日米合同委員会?
それかM16?
あと、盗撮もしとるやろ。
セクハラな。
56歳のオバハンにストーカーとかどんな物好きや?
自らの人生見直した方がええで。