2024/8/21水曜日
4時に起床し朝食作り。
5時に畑へ。
恒例のミニトマト撮影。
7/24植え。

7/30植え。

そして、豪雨後に元気が無くなった枝豆達。

6時に帰宅後、シャワー&洗濯。
9時に親族宅へお迎えに。
皆で近くの公園で水遊び。
11時に親族を送り届けた後夫と買い物。
12時に帰宅後、昨夜以来の食事。
午後は読書。
昨日に引き続き本多正信本。
その後、甲賀の多羅尾光俊に琵琶湖の湖上貿易の斡旋を頼まれ、水夫集めに琵琶湖へ。
堅田(大津市本堅田)の本福寺へ行き本福寺法住七代の明順に湖上通行の便宜その他を頼んだ。「賀茂の神紋を掲げる本多殿の船に悪さを仕掛ける者などおりますまいが一応斡旋申そう」と快諾された。
そうして忽ち5年の月日が。その間、暗殺された将軍義輝の弟は囚われ先の三好勢から甲賀へ脱出。義昭と名を改め織田信長に奉じられ上洛。それに伴い甲賀の名家六角家は没落等の事件があったものの堅田の弥八郎はその余波から逃れた。
信長の朝倉攻めでは浅井氏が誓約違反だと信長との同盟を反故に。浅井が朝倉に援軍を送った事で挟み撃ちに。
信長は辛くも逃げ切った。
袋の鼠となった朝倉攻めの織田軍撤退では木下藤吉郎が殿を申し出た。二千の木下隊は三段に構え金ヶ崎城の山麓から野にかけて篝火、松明を盛んに燃やし信長から遣わされた馬印、幟数百を押し立てて一戦の構えを作った。誰がどう見ても信長の本陣の様子、を装った。木下隊は三万の織田軍が逃げるまで5時間の時を稼いだ。
木下隊は僅か600人に減り追尾してくる越前勢は数千超え。
椿峠では先鋒を務めていた徳川軍と合流。徳川軍は小浜へ。
弥八郎は多羅尾船団を船木浦(高島郡安曇川町)に集結。徳川軍を救けようと待っていた。
弥八郎は徳川軍先遣隊の渡辺守綱の姿を見つけた。そして木地屋達を呼んで、船木浦に向かえば退却用の船が用意されていると伝えるよう命じた。そして自分の名を明かさないように、とも。
徳川軍は船木浦から多羅尾四郎兵衛光俊の荷船に乗り退却した。
弥八郎と小笠原氏娘のあいちゃとの子は弥八郎三河出奔の翌年永禄8年に生まれた。
松平元康(家康双子の弟)の忘れ形見の世子竹千代は加冠を務めた信長から一字を貰い松平次郎三郎信康と名乗った。
元亀元年9/6, 大坂の石山本願寺の顕如法主は畿内近国の門徒衆に対し織田方に向けた蜂起を促す檄文を発した。勿論弥八郎が滞在する堅田の本福寺門徒も参加。本多弥八郎も石山本願寺に籠もった。
石山本願寺は大坂平野南部の淀川河口部の上町台地、大阪城本丸の辺りに位置していたのでは?と言われる。その地は海上の守護神住吉神社が勧請され聖徳太子が四天王寺を建立。孝徳天皇が難波宮を営んだ場所でもある。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA
恐らくこいつにけしかけられた信長は比叡山延暦寺や石山本願寺を焼き討ちにする事にしたな。
信長はその場所をゲット出来るし異教徒フロイスはライバルが減り布教しやすくなる。
またDSによる悪事が一つバレたのであった。
今日はここまで。
17時半から夕食作り。

鶏もも肉のバルサミコ酢炒め、トマトとキュウリとクリームチーズのマリネ、ウォッカ梅酒ロック。
自分はお腹が空いてないのでウォッカ梅酒ロックとチーズで済ませた。
歩数計は8079。
充実した一日だった。