2024/8/20火曜日
3:45に起床し朝食と昼食作り。
5時に畑へ。
恒例のミニトマト苗の撮影。
7/24植えの再生苗。
7/30植えの苗。
枝豆がクターッとなっていた。
普通は雨降った次の日の植物てシャキーン!て元気なものなのに、うちの畑の作物は萎れている。
何かしら撒いてる。
朝顔は元気だった。
6時15分に帰宅後シャワー&洗濯。
6時55分に次男を駅まで送迎。
朝食の後片付けを済ませ洗濯物を干したら読書。
昨日に引き続き羽太雄平著の本多正信本。
家康サイドも迂闊に手を出せない。
そこで、岡崎松平軍は渥美半島田原の戸田三郎左衛門忠次を誘うとあっさり応じた。
今川家の駿府に向かう途中の竹千代(実は双子の弟の松丸)を尾張の織田に渡し所謂尾張売りをした戸田三郎左衛門は浪々の身。
手柄を立てようと酒井忠次の一隊を上宮寺搦手に案内しようとしたところ発覚。
一揆方に鉄砲を撃たれ弾丸を兜に受け昏倒。夜討ちは失敗した。
外曲輪を焼いただけで引き上げた。←寺だけど搦手とか曲輪とかお城みたいやな。
この一向一揆では内応が続出。←戦いにならんわな。
夏目吉信は乙部八兵衛と額田郡の古城に立て籠もり野寺から大津半左衛門の応援を得、深溝松平勢を引き付けつつ戦った。が乙部が寝返り。大津は針崎の勝鬘寺に退き夏目は生捕りに。
上野城の酒井将監が200余名を仕立て岡崎城攻撃を目論むと岩津への瀬渡し場で石川家成・本多忠勝隊に待ち伏せされ大敗。これも城内で伊賀谷惣左衛門が内応した為。
更に針崎勝鬘寺も大将分とされた蜂屋半之丞が大久保党に通じていると疑われた。半之丞は大久保忠俊の三女を娶っていた。ある日、攻め寄せた大久保党の帰路を一揆方が二手に分かれ挟撃を試みた。が、半之丞が一騎飛び出した為、大久保党が気づき作戦は失敗。
1/20, 弥八郎は事の真偽を確かめる為、半之丞が居る針崎の勝鬘寺へ。
勝鬘寺では弟の三弥が戦で大久保忠世に足を撃たれ療養中。
足を引きずりながらも大丈夫なのを確認した。
大久保忠世も眼を射られ療養中らしい。
半之丞の寝返りに関して弟の三弥は昨年11/25の一揆方と岡崎勢の初戦で家康が半之丞の間近に迫るも主君を討つ事は出来無い、と代わりに随身の家来を突き倒した、という出来事があった。
この有名な三河の一向一揆は家督から外された元康の身の安全を図る、という側面がある。
元康公は兎に角家来に優しかったらしい。
家康サイドに元康公を邪魔者として消そうとする動きがあったので側近や僧徒や農民達が立ち上がった。
その1人、加藤孫次郎は深溝松平の家臣ながら一揆に馳せ参じた。一揆解体のあと三河を去り生まれたばかりの子と妻と諸国を武者修行。室町将軍の足軽働き後、羽柴秀吉に仕え会津若松40万石を領有する程に栄達する。その殆どはこの時生まれた赤子孫六嘉明の働きによる。賤ヶ岳七本槍の加藤嘉明や!
この大久保の婿の蜂屋半之丞なる人物、三河の一向一揆の旗頭に出家した元康を担がせようと策略しとるな。で、岡崎年寄衆は殺してしまおうとしとる。元々、生まれてすぐ僧籍となり修行していた松丸を還俗させ人質として今川に送り、戸田をして拉致させ織田に売り渡すのを画策したのも岡崎の年寄衆、と見た。
ある日、弥八郎は一騎駆けをしている家康をつかまえ詰問。
弥八郎は家康に、酒井正親に命じ元康が滞在する法蔵寺を厳しく監視させたり元康への援助品を押収したのは何故?と詰問。
家康は「元康は謀反を企てた。門徒達が武器を運び入れている、と年寄衆から聞かされたから」、と答え、「違うのか?」と尋ねた。
最初に元康謀殺を企てたのは岡崎年寄衆。
家臣や僧徒、農民達は元康公を守ろうと蜂起。
元康公はそれだけ慕われていたのでは。
今日はここまで。
10時半に嫁と孫達が来訪。
12時に昨夜以来の食事。
お昼寝が終わったら午後また来ますね〜と13時にお暇していった。
15時に嫁から連絡があり急に体調が悪くなったので子供らを預かって欲しいと連絡が。
夫が駆け付け孫達を預かってきた。
あのさ、何度も言ってるけれど、DS連中は何で弱い者いじめばっかするんだ?
わいに恨みがあるならわいを標的にすべきやろ。
DSと闘ってるのはわいやから。
わ・い・だ・け。
孫達が帰った17時半から夕食作り。
イカとカニカマの梅酢サラダ、キュウリの茗荷漬け、豚ヒレ肉の塩麹ローストポーク、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら読書の続きをする事に。
歩数計は9264。
充実した一日だった。