2024/8/18日曜日
3時45分に覚醒。
最新情報をサーッとチェックしたら4時15分に起床。
4時45分に畑へ。
7/24に植えて死に掛けたミニトマト苗は順調に再生。
7/31に植えたミニトマト苗も順調。
すぐ側に緑色の液体撒かれてるけどね。
漸くゴーヤもなり始めた。
水やりをしたら6時15分に帰路に。
帰宅後シャワー&洗濯。
ベランダの水やりも済ませたら米麹の品温をチェック。
昨日、米を蒸し種麹をまぶした。
真夏で気温が高いので発酵機無しで放置。
それでも麹菌ちゃん達はちゃんと仕事をして品温を41度まで上げてきた。
これを麹蓋に移し、パイレン布と晒布を被せたら再び放置プレイ。
部屋の中には麹の良い匂いが充満。
その中で読書をスタート。
昨日に引き続き本多正信本。
若き本多弥八郎は今川義元の上洛途上の尾張清洲城の織田信長攻めの兵糧準備を仰せつかる。
「雑兵物語」(松平信綱嫡子輝綱著)によると登場一兵当たり米は1人6合、塩は十人に1合が支給されたそうだ。
弥八郎は米を5合にした。
それでも、4万人分の米は五千俵と弾き出された。
運搬は馬1頭に三俵。1600頭の馬を用意。
織田信長が今川義元を迎え討つ桶狭間の戦い前に、こんな準備が成されていたのな。
更に、今川義元上洛前に青木三蔵義勝は郷里の甲賀郡正福寺村へ帰郷。
京への道案内の準備と六角氏との交渉をすることに。
本多弥八郎は尾張の諸城を下見に。
その旅の途中、船に万歳法師が同乗。
万歳は元々千秋万歳と言った。
特に年頭に初春の祝福をもたらすと言われその神霊の所作を指す。
「三河万歳」が有名なのだそう。
また、万葉集に東風を「あゆちの風」と詠む歌がある。
鳴海潟を古名で言えば年魚市潟「あゆちがた」
後に転じて愛知がこの地方の郡名に。
明治5年に愛知県となった。
色々と勉強になるわ〜。
兵力で今川義元の足下に及ばない信長は策略を以てその力を減じた。
義元はその策略に嵌り、信長の流した流言を信じ山口左馬助を自害させた。
更に、笠寺城の戸部新左衛門の偽書を筆跡を似せて作成。
それが今川義元の元に届けられ義元は激怒。
新左衛門を斬首にした。
こういう出来事があった為か尾張には信長嫌いが大勢。
久遠山成信坊住持祐念も鯏浦の服部政光も大の信長嫌い。
四家・七名字の十一党は南朝以来の古い家柄。
1524年、織田信定(信長祖父)が奴野城を攻め津島を配下に。
多くが武士を捨て町人に。
四家の岡本家に連なる熱田神官の宮の善七一族。
七名字の堀田家も散り散りに。
堀田道空は斎藤道三に仕えるように。
道空亡き後弟の正秀が跡目を継いだ。
正秀の母は大河内源三郎の姉。
正秀は後に前田利家に仕え、子正吉は浅野に仕えたあと小早川の家臣に。
それを家康が召し出し、孫の正盛は家光の寵臣に。
その子正俊は大老職に。
堀田家も出てきたよ。
それにしても尾張三河には室町時代まで遡る古くからの名家が多々あるのな。
そういえば、持統天皇も死の間際に1ヶ月間も三河に行幸しておる。
これから楽しみにして読む事に。
11時半に親族が到来。
一緒に御飯を食べ団欒した。
520gの蕎麦は秒で無くなった。
親族が15時に帰った後、ウォッカ梅酒ロックを呑みながら読書。
17時半から夕食作り。
タコミート、タコシェル、サルサ、トッピングのチーズと野菜、ウォッカ梅酒ロック。
ウォッカ梅酒ロックは3杯目。
このあと食後に4杯目に突入。
ちょいと呑み過ぎ?と思い、ロシア人のウォッカの飲む量を調べたが特に出てこなかった。
基本、ショットグラスでストレートで飲むらしい。
わいには無理。
こんなに飲むのは夏限定だから気にしない事とする。
しかも、ウォッカて二日酔いしないのが良い。
体が良い感じに冷えた。
歩数計は7572。
充実した1日だった。