2024/7/27土曜日
4時に起床。
4時半に畑へ。
水遣りをしながら一通り畑の作物をチェック。
すると、トマトと茄子の苗が弱っていた。
3日前に急遽購入したトマト苗も弱っていた。
異なる畝に植えても育たないのか。
まぁ、手前に緑色の液体はたっぷり撒かれているからしゃーないのか。
これ、犯罪やろ。
今は捕まらないだろうけど、神様は見てるで。
6時に帰宅後、シャワー&洗濯。
ついでにベランダガーデニング。
8時から最新情報のチェックと読書。
昨日に引き続きジェームス三木著「へその曲げ方 西郷頼母会津藩始末」
この方、幕末の会津藩で活躍した家老なので、自分にとって幕末に起きたクーデーターの良い復習になる。
第二次長州征討には将軍家茂自ら出陣。
大坂城から指揮をしていた。
そんな最中、家茂公は21歳の若さで脚気で死去。
日本のツートップが5ヶ月以内に亡くなるなんて怪しくないか。
公議政体論を主張。
孝明天皇が居る限り幕府は倒せないと薩摩藩や長州藩が考えてもおかしくない。
せやな。
新撰組の近藤勇と土方歳三が京都にはびこる害虫のリストを黒谷(会津藩の拠点)に持参。
長州藩の桂小五郎、薩摩藩の西郷吉之助、土佐藩の坂本龍馬、長州藩の高杉晋作(既に結核で死去)、岩倉具視。
同じ頃坂本龍馬は「船中八策」で王政復古、上下議政局の設置、公論に依る政策決定の構想を示した。
岩倉具視の公議政体論を成文化。
イギリスの議会制度の引き写し。
龍馬は土佐藩重臣後藤象二郎を説得、後藤は藩主山内容堂を説得。
慶喜はこれを形式的な物と考えた。
将軍は元々天皇の臣下だから。
10/14, 慶喜は朝廷に参上。
大政の奉還を奏上。幕府は朝廷と融和がこの頃成ったと信じた。
が、その前に岩倉具視は14歳の天皇に薩摩と長州に倒幕を命ずる密勅を下させた。
14歳の天皇が倒幕の密勅を下すとは思えない。
この頃、三河で民衆による異常行動「ええじゃないか」が広まり盛んに踊り狂う人々が居た。
宝永年間に発生した「おかげ参り」もそうだが宗教から発して社会現象に発展する奇妙な行動はほぼ60年を周期に繰り返すと言われている。
最近だといつだろ?
バブルの頃のマハラジャディスコのやつ?
11/16, 「ええじゃないか」の騒ぎの中で坂本龍馬は殺された。
龍馬は倒幕の密勅を知っていた。
だが、大政が奉還されたからには武力討伐の必要は無いと主張していた。
それが勤皇派とイギリスフリーメイソン達の邪魔になった。
武力討伐が無いとお金儲け出来ないからな。
12/9, 禁裏の小御所で朝廷の御前会議が開かれた。
確か、ここで山内容堂が主家の将軍徳川慶喜がこの会議に出席していない事は如何なものか、と異を唱えた。
突如として将軍慶喜が出し抜かれ梯子を外されているのだから。
が、確か、ここで会議に出席する身分で無かった裏方の西郷吉之助が、いざとなったらナイフがある、みたいな事を言って岩倉具視を激励。
山内容堂は西郷に脅され屈服。
こんな慶喜イジメの欠席裁判で将軍慶喜の処分が決定。←罪状何?
こんな、クーデーター会議で王政復古の勅令が宣下され、て、14歳の明治天皇の知らない所でやったんやないの?じゃないと、14歳の明治天皇がクーデーターの首謀者やで。
同時に14歳の天皇を頂点とする新政府の樹立も発布された。←藤原氏の摂関政治やないかー!まさかの平安時代に逆戻り。
藤原氏の天皇傀儡摂関政治は百害あって一利無して、既に歴史で学んだから武家政権の鎌倉幕府が成立していい感じでやってきたのに?
傀儡使うのはDS連中の常套手段よ。
今も世界中でやっとるがなー。
WEFから傀儡を各国に送り込んで。
新政府のメンバーにより将軍、京都守護職、京都所司代は解任され代わりに薩摩藩と長州藩が御所周辺の警備に。
容保公は大坂城へ。
養子の余九麿と照姫は江戸藩邸へ。
12/25, 庄内藩ら四藩の江戸取締役は幕命により江戸市中で犯罪しまくった浪人共を捕縛しようと根城の三田薩摩藩邸へ。
犯罪軍団の浪人共を引き渡そうしない。
なので、討ち入りを掛けると薩摩藩側は屋敷に火を付けて逃亡。
品川沖に停めてあった藩の軍艦に乗って逃亡。←真っ黒。
朝廷はこれを幕命によるものと断じ慶喜の出頭を命じた。←全くもって意味不明。江戸の人々は誰が江戸市中で強盗や放火、人殺しやってたか知ってるで。悪いのは薩摩藩やろ。出頭命令出す先は薩摩藩。
近国28藩に檄を飛ばし大坂への出兵を命じた。
武器のレベルが違うから最初から勝敗付いてる戊辰戦争の始り〜。
1868年1/3, 幕府軍は一万の兵で大坂城から京都へ。迎え撃つ薩長軍は僅か四千。
薩長軍は最新式の大砲や鉄砲を売って貰えた(幕府の賠償金で)
幕府軍は火縄銃。この日はDS悪魔による気象操作で雨。火縄銃に火が着かず。
あくる4日、朝廷は薩長軍を官軍と認定。←何を根拠に?
去就に戸惑い右顧左眄していた諸藩は次々に薩長軍側に。
会津藩は鳥羽・伏見で120人が戦死。
負傷兵や敗残兵は紀州の領内へ逃げ込んだ。
確か桑名藩兵も。
立見尚文とか。
紀州藩は飢えと寒さに震える会津藩兵1800人を見殺しに出来ず領内各所へ匿った上、89艘の船を仕立て江戸に送り返した。←この話、誰か本書いてたら読みたい。
薩長軍は会津藩の二千人近い戦死者の遺体を野晒しにしたまま埋葬を許さなかった。
城下には死臭ぷんぷんとし野犬や野鳥が遺体を食い荒らした。
堪りかねた住民がこっそり穴を掘って埋めると薩長軍の兵士が掘り返してそこいらに放置。
飯盛山の自刃した白虎隊士の遺体も、村人が埋めた遺体を薩長軍に掘り返された。
焼け残った民家や周辺の百姓家も襲われ略奪や陵辱が頻繁に起きた。抵抗する者はその場で殺害され素っ裸で木に吊るされた女もいた。←鬼畜過ぎてノーコメント。
引き続き、もう一冊の本、西郷鶴夫著「弧影の名臣 西郷頼母」を読む事に。
再び、幕末のクーデーターのおさらい。
会津藩家老の西郷頼母が放った間者の報告によると、京の都は志士と称する浪人どもが闊歩。京都のテロは激化の一途。皇城の地とは名ばかり、無法者の街、という呼び方が相応しい。
1年5ヶ月の歳月を戦い続けた戊辰戦争は薩摩藩の一兵士の放った銃弾によって火蓋が切られた。
「討薩の表」を掲げ鳥羽・伏見の両街道に布陣していた一万五千の幕軍は1868年1/3の夕刻、会、桑両藩の先鋒として京を目指して進発した。
大坂から京へ通じる道は三街道。何故か幕軍は竹田街道を捨て鳥羽、伏見から軍を進めた。
先頭に立つべき二人の指揮官松平守正、竹中重固がいつまで経っても来なかった。この2人強硬な主戦派。にもかかわらず遅れてきた。←なんでだろ?
将兵は寒さの中を未明から午後3時まで長時間待たされ戦意を失っていた。
戦ううちに火力の差が歴然に。←だーかーら、武器が大人と子供程に違うから最初から出来レース。薩長軍はイギリスのグラバーから最新式の武器を与えられていた。←それって、幕府が薩英戦争と下関戦争で肩代わりした賠償金を元手に購入したんやないの?
こんなふざけた話があるか!?
開戦4日目の1/6になって幕軍は総崩れとなって大坂城へ。
慶喜は一度も大坂から出ず。
始めから戦う意志無し。
幕下の兵の殆どは西軍に対する闘争心が甚だしい。それを抑える為には自分を含めた幕府の首脳がここ大坂城から消え去る事が必要、と考えていた。←そういう事だったんか。
慶喜が恐れていたのは朝敵の烙印を押される事。
↑神保修理を呼んだのは何故なのか、気になる。
慶喜にもブレーンは居るだろうに。
6日夜、慶喜は松平容保、松平定敬、老中板倉勝静ら、大将に担ぎ上げられそうな重要人物16名を伴い江戸を目指した。
兎に角戦争をやりたくなかった。
江戸に帰ったら帰ったで小栗忠順などの主戦派が勝海舟を始めとする恭順派を圧倒。
主戦派小栗忠順の舌鋒がますます鋭くなったところで小栗は1/15, 老中酒井忠惇より御役御免に。
慶喜公は兎に角戦いたくなかったのな。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
お腹が満たされたら午後も読書と調べ物。
西郷頼母は間者を使い京都での情勢を取り入れていた事に驚いた。
18時から夕食作り。
鮭の青唐辛子味噌ダレチャンチャン焼き、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
歩数計は6202。
充実した一日だった。