2024/7/28日曜日
6時に起床。
6時半に畑へ。
既に日差しが強い。
昨日の集中豪雨後の畑をチェック。
思っていたよりも被害は少ない。
倒れた枝豆を支柱で支えた。
畑仲間と談笑している中、落花生のマルチの話になった。
落花生はその名の通り花が落ちてそこに実が鳴るのだそう。
だからマルチがあると実はならないのでは?という話に。
そうなんかー。
自分は知らずにマルチ畝に植えていた。
慌ててマルチ剥がし作業。
カボチャも生い茂っているので大変な作業に成った。
最後に、作物の根元に苦り水。
流石に昨日の豪雨のあとは水遣りはしない。
ただ、大雨に紛れてDSは何かを撒くので対策はした。
8時半に帰宅後、シャワー&洗濯。
ついでに梅干しの土用干し。
今日で4日目。
うちは、夜の間に鳩や悪魔くんがベランダの鉢植えに色々悪戯するので外に出しっぱなしに出来ない。
なので、暗くなる前に取り込み。
去年も4日間は干した。
幸い、雨は降らなさそう。
10時半から昼食の焼きそばの調理。
11時に夫はひと足早く食事、
程なくテニスへ向かった。
12時に昨夜以来の食事。
ヤロー共には焼きそばを調理。
自分は納豆と味噌汁メインでお腹を満たした。
午後は読書&調べ物。
昨日に引き続き、西郷鶴夫著「弧影の名臣 西郷頼母」
将軍慶喜が江戸城に帰城後、抗戦派は退陣を余儀なくされ容保、定敬に対しても登城禁止令が。
容保は慶喜と別れ一騎悄然と和田倉藩邸に帰還。
藩主がたった一人で帰ってきたんよ。
護衛もなく。
容保は慶喜から使い捨てにされた。
思えば京都守護職を再三に渡って固辞した容保を巧言をもってがんじがらめにし無理矢理受諾に追い込んだのが慶喜と松平慶永(春嶽)
その頃、国産奉行の河原善左衛門が会津から出府。
頼母が呼んだ。
藩を挙げての主戦論に対し数少ない恭順派の一人。
善左衛門は今回の諌止に生命をかけ白装束の用意もしてきた!
容保の前に伺候し面を冒して発言。
総督府に対し謝罪と恭順を、とお願いした。
そこへ主戦派で新たに軍事奉行に登用された上田学大輔、留守居役の手代木直右衛門、御使番黒河内勇左衛門ら30名を超える家臣団が善左衛門を取り囲むように座った。
↑この様子を見て、頼母は河原善左衛門が斬られるのでは?と危惧。
善左衛門と共に退去した。
そして、迎えた白河口の戦い、頼母は総督に。
そして、白河城を抑える事に成功したものの西軍に奪われた。
敗戦後、鶴ヶ城へ帰城した頼母は容保公に向かってこう述べた。
殿は既に鳥羽・伏見の戦で薩長の鉄砲類の恐るべき威力のこと、ご存知であった、と承知致しております。それなのに、何故?とは申し上げますまい。重ねて申し上げまする。我が藩の装備は薩長の軍と戦うには全くもって不十分、幾ら戦っても勝利は得られますまい。再びお怒りを蒙ることと思いますが何とぞ和平恭順のこと今一度お考え頂きたいのでございます。

このあと、頼母は敗戦の責を負って総督の職を辞し謹慎。
白河口の戦いの敗因は火器の圧倒的な差だったんよ!
薩長軍は前装のミニエール銃(蚕形弾)後装のスペンセル銃(七連発)更に後装のスナイドル銃など当時としては一流の製品を装備していた。
元手は幕府の賠償金。
薩長は軍艦もいぱーい買ってるで。
何処からそんなお金が?
対する会津藩諸隊の装備は火縄銃が主力。←雨降ったら使用不可。
僅かに所有する洋式銃も欧米では既に廃銃となっている古い型のヤーゲル銃が主体。
旧式銃と新式銃では威力及び性能の点でも比較にならなかった。更に、西軍には佐賀肥前藩が保有するアームストロング砲があった。射程距離三千メートル。江戸の上野寛永寺をぶっ壊し彰義隊殲滅に威力を見せた。会津藩の大砲二門は故障して使い物に成らず。
西郷頼母の母、律子は、頼母が藩内で浮いた存在になっている為、その家族に対する風当たりは強かった。家族が城へ入っても疎外される恐れは十二分にあった。それならば死を撰んだ方が良い、との思いがあったであろう。家族打揃っての自刃には死をもっての抗議、の意味も含まれていた。頼母の妻、千重子に向かい「さぞかし冷たい義母とお思いであろうの。頑是ない常磐子や季子まで道連れにすることはあるまい、と言われても仕方のない仕儀とは思いますが、、、西郷家に生まれたことが不幸な巡り合わせと思うて諦めてもらわねばなりませぬ。お前様もこの家の立場を考え覚悟されるようにの」
「義母上様、確と承りました。細布子、瀑布子、田鶴子によく言い聞かせます。眉寿子、由布子のお二人には義母上様からお話頂きたいと存じます」それから間もなく西郷家の1間では女達が集まって白装束を縫う姿が見られた。それは、死を覚悟した会津の女達のしたたかな姿であった。←DS共のワクワクする展開。えがったな。イギリスフリーメイソン共!
「戦が無ければ」←ホントこれ。
8/22の未明、頼母にお召があり家族は揃って早い朝食を済ませ永遠の別れとなる主の旅立ちを感慨を込めて見送った。
そこへ飯沼貞吉が白虎隊出陣の挨拶へ来た。細布子は16歳、飯沼貞吉は15歳。従兄弟同士だが想い合っていた。
このあと、貞吉は奇跡的に一命を取り留める。細布子は自刃するが。
西軍が城下に乱入した事で警鐘が打ち鳴らされた。
律子は「思っておりましたよりは早くまいりましたようです」と言い千重子は「衣装を改めて広間へ参ります」と覚悟した。
①頼母の母律子(54歳)
②妻、千重子(34歳)
➂長女細布子(16歳)
④次女瀑布子(13歳)
⑤三女田鶴子(8歳)
⑥四女常磐子(4歳)
⑦五女季子(2歳)
➇頼母の妹眉寿子(26歳)
⑨同じく妹由布子(23歳)
⑩律子の実家(小森駿馬家)の母ひで子(77歳)
⑪駿馬の妻みわ子(24歳)
⑫駿馬長男千代吉(5歳)
⑬駿馬妹つち子(10歳)
⑭みつ子(2歳)
⑮支族の西郷鉄之助近虎(67歳)
⑯妻きく子(59歳)
⑰縁者の軍事奉行の町田伝八(50歳)
⑱妻ふさ子(59歳)
⑲姉浦路(65歳)
⑳町田伝八の次女たつ子(24歳)
㉑その長男彦(2歳)
以上21名
跡取りの吉十郎は用人星野宗作に託し城へ連れて行って貰った。
律子は大広間に家族の全てを集めた。
そして、律子から順に辞世の句を詠じた。
「秋霜飛んで金風冷ややかに白雲去って月輪高し」
千重子「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節のありとこそきけ」
頼母の妹眉寿子「死にかへり幾度び世には生まるともますら武雄となりたんものを」
同じく妹由布子「武士の道と聞きしをたよりにて思いいたちぬる黄泉の旅かな」
次女瀑布子上の句「手をとりてともに行かなばまよはじよ」
長女細布子下の句「いざたどらまし死出の山みち」
詠じ終わると別離の水盃を汲みかわし「では、さらばです。皆も遅れることのないように。千重さん、長い間色いとお世話になりました。本当にありがとう。勝手ですが年寄は足が遅い。一足お先に参ります」と律子は母ひで子の手を取り仏間へ。
二人は祖先の位牌に合掌。先に合掌を解いた律子は、ちんまり小さな体を曲げるようにして、ひたすら念仏を唱えるひで子の背後に回った。小さな背にそっと左手を置き、二、三度優しく撫でるようにして「母上様、お許し下さいませ。死出の旅をお供させて頂きます」老いの体をかき抱くと、思い切ったようにその胸を刺し、返す刀で自らも同じように心臓を刺し貫き、前のめりに母の遺体に覆いかぶさっていった。
千重子は義母達の最期を見届けると用人の森川喜左衛門を呼び、最期を見届ける事とこの家に火を掛け辞世の句を頼母に渡す事を依頼した。
大広間に戻った千重子は「義母上様もお祖母様も見事にお果てなされました。私達も遅れずにお供しなければなりませぬ。死に遅れて敵に辱めを受けぬようにせねばの。」
諭すように言いまず田鶴子を手許に引き寄せ幼い胸に懐剣を突き刺した。それを見た四歳の常磐子が魂消えるような声でわっと泣き出した。千重子は「常磐っ!」と叫びながら懐にかき抱くと小さな胸元へ刃を刺し通していた。
細布子と瀑布子は母の側へにじり寄った。幼い妹達は助けてやりたかった。
千重子「それよりも、お前様達、死に遅れてはなりませぬ。既に田鶴も常磐も旅立ちました。そなた達のおいでを待っておりますぞ」
細布子「母上様、よくわかりました。申し訳ございませぬ。私も瀑布子もお先に参ります」
千重子「おお、母も季と共にすぐ参ります。心安らかにお待ちあれ」
細布子と瀑布子はそれぞれ咽喉を突き更に胸を刺し貫き既に血の海となった畳の上に突っ伏していった。千重子は膝下へまとわりついている季子を抱き上げた。2歳の幼児は母親の顔を見上げてニッと笑った。まだ乳の匂いのする幼児を一度強く抱きしめると小さな胸に懐剣を刺し貫いた。そして、最後に千重子も胸に突き刺し幼い娘達の遺体を掻き抱くように覆いかぶさった。
用人森川喜左衛門は最期を見届けたあと香を焚き火を放ち裏口から出て行った。
それと、ほぼ同時に薩摩藩士の中島広厚率いる先鋒隊が西郷邸へ来た。屋敷の中には21の死骸が。遺体の一つが微かに動いた。近づくと「敵かお味方か?」と問うてきた。「味方です」と答えると懐剣を差し出してきた。トドメを刺してほしい、という意思表示と見た。中島は「分かり申した」と言い娘の胸に深々と懐剣を貫き通した。
この日、城下で自らの生命を絶った婦女子は230余名。藩士の戦死者460余名。城下の領民の死せる者はこの数を上回ったと言われている。
↑えがったな、DS共。人がいぱーい死んで。
今日はここまで。
17時半から夕食作り。

冷奴、蒸し豚、味噌ダレ&ニンニクネギタレ、キャベツとキュウリの千切りとトマト、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
お皿を洗ったら営業終了。
読書と調べ物の続きをする事に。
歩数計は7183。
充実した一日だった。