arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー936日目

2024/4/5金曜日

6時に起床し洗濯と朝食、昼食作り。

ついでにおやつの梅ジャムパウンドケーキを製作していると長女から雨だから駅まで送って?と依頼が。

雨か。

じゃ、行こうと思っていたテニスも畑もお休みやな。

一気に予定が無くなったので駅まで送迎のついでに買い物を済ませることに。

 

9時過ぎに帰宅するとパウンドケーキが美味しそうに出来上がっていた。

洗濯物を浴室乾燥し昼食用のサラダとスープを調理したら家計簿の記入。

長男一家が滞在中、家計簿を付けていなかったのでレシートが山のように溜まっていた。

それが終わると11時。

漸く読書タイムに。

 

昨日から菊地明・伊東成郎編「戊辰戦争全史上」を読んでいる。

この本は戊辰戦争に至るまでの経緯が時系列でわかりやすく書かれている。

頭の中で整理するのに役立った。

(1)1867/12/8正午から朝議が開催され翌日12/9の朝8時に終了。

①朝敵とされた長州藩復権、藩主父子の官位復旧と上京の許可②処分中の公卿の全面復権(含岩倉具視)などが認められた。

※この朝議に大政奉還をした徳川慶喜と老中、会津藩主の松平容保桑名藩主の松平定敬は欠席。

(2)1867/12/9午前10時前後、御所蛤門を警護する会津藩と公家門を守る桑名藩に代わり土佐藩薩摩藩が出動。これに芸州、尾張、越前の藩兵も加わった。正午過ぎに廷臣と大名が参内。王政復古の詔勅が16歳の明治天皇によって下された。

そして、何故か慶喜が入っていない「三職」が発表された。

(3)1867/12/9夜小御所に於いて天皇の御前で初の三職会議が発議された。

議題は「徳川家の処分」

↑徳川家はなんも悪い事してないけど?

ここで徳川家の辞官と領地の返納が議論された。

それは幕臣全員が禄を失う事を意味する。

土佐藩は猛烈に反対。

尾張と越前藩が慶喜に自発的に行うよう周旋する事になった。

(4)1867/12/11全面復権した長州藩が早速出兵&上京。翌12日に徳川慶勝松平春嶽慶喜へ大阪への退去を進言。

慶喜松平容保と定敬らと共に下坂。

(5)1867/12/17幕府主戦派は慶喜の名で「挙正退奸の上表」を奏聞するも岩倉具視松平春嶽の手により揉み消される。

(6)何とか武力討伐に持ち込みたい薩摩藩は江戸での幕府撹乱を画策。集めた浪士隊を使い強盗や人殺し、放火等を遂行した。

1867/12/23未明江戸城二の丸で火災が発生。

更に江戸での警備を担当していた庄内藩の屯所に銃弾が打ち込まれた。

12/24夜、犯罪人が逃げ込んだ薩摩藩邸に犯人引き渡しを要求するも拒否されたので庄内藩は遂に攻撃を開始。

どこからともなく火の手が上がり薩摩藩邸から逃げ出した浪士隊は品川宿に放火しながら薩摩の軍艦翔凰丸に乗艦。

停泊していた咸臨丸と回天がこれを砲撃するも逃げられた。

(7)薩摩藩邸焼き打ちの報が大坂城に届くや全員が血相を変え慶喜の前に出て挙兵を迫る事態に。西郷の江戸撹乱作戦大成功。思惑通りの展開に。ウクライナがドンバスを攻撃してロシアを戦争に引きずり込んだのと同じよ。

1868/1/1慶喜の名義で「討薩の表」が奏聞された。「君側の奸を除く」という名目で薩摩藩に宣戦布告。

薩摩藩は若干16歳の明治天皇を盾に好き放題やっとるからな。

 

これで、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が始まった、と。

このあとも薩長は16歳の明治天皇を利用し慶喜討伐の勅を発令させている。

ちなみに、父親の孝明天皇公武合体政策に賛成で幕府と協調し一枚岩となって外国勢に対応しようという考えだった。

だから暗殺されたけど。

外国勢は朝廷と幕府が戦い武器を買い日本人が互いに殺し合い人口が減る事を望んでいる。

だから一枚岩は困るんよ。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

お腹が満たされたら午後も読書。

 

17時から夕食作り。

ぶり大根、牛蒡巻き、根菜サラダ、昼の残りのスープ、昨日の残りの白和え、春菊の胡麻和え、沢庵風漬物、チーズ&ナッツ、ウォッカ梅酒ロック。

後片付けを済ませたら営業終了。

読書の続きをすることに。

 

歩数計は6457。

充実した一日だった。