2024/7/9火曜日
4時に起床し朝食と昼食作り。
6時に畑へ。
大根やカブ、キュウリ、インゲン、オクラを収穫。
収穫が終わったら水遣り。
水遣りしていると枝豆の葉に黄色い点々があるのに気がついた。
黄色掛かっている葉を剪定。
トマトの葉も一部萎れていたので剪定。
7時半過ぎまで作業。
帰宅後、ベランダガーデニング。
セルリーとキャベツの種を蒔いた。
シャワー&洗濯を終えたら、久々の米麹作り。
今回は気温が高いので発酵機無しで米麹作り。
11時半から食事の用意。
12時に昨夜以来の食事。
お腹が満たされたら、午後は読書&調べ物。
まずは、白河の紹介から。
戊辰戦争中、奪還と攻防をかけて、7度もの戦闘が行われた城がある。
白河小峰城。←丹羽長重公が築城した名城な。
白河の地は古来より交通の要衝。
5世紀中頃から関所が設けられていた。
本格的に関所として機能し始めたのは8〜9世紀頃。
白河の地は1189年、源頼朝の藤原泰衡追討に従い功績のあった結城朝光が地頭に任じられてから結城氏が400年支配。
朝光から五代目あとの親朝が別家小峰氏を創設。
小峰ヶ岡に城を築いたのが白河小峰城の始まり。
戦国時代になると会津の所領となり蒲生氏・上杉氏が治めた。
関ヶ原の戦い後は丹羽氏。
1643年に丹羽氏が二本松に転封になると譜代大名の松平氏が入封。
その後白河藩は奥羽諸藩の外様大名の抑えとして有力な親藩・譜代大名が頻繁に入れ替わった。
1823年、武蔵忍藩主だった阿部氏が白河藩に入封。
その後正外は日米修好通商条約締結の結果、兵庫港を開港したことにより攘夷派の非難を受け1865年に老中を罷免。
その2年後の1867年、代わった第8代藩主阿部正静の時棚倉藩転封の命が下った。
白河藩は藩主不在に。
幕府の管理下となり二本松藩が城番を命じられた。また、棚倉、三春、相馬、平、泉藩も交替で警備する事となった。
1868年2月、阿部氏は再び白河へ転封。
阿部氏忙しすぎやろ。
嫌がらせレベル。
転封を命ずる、て簡単に言うけど藩主のみならず藩士とその家族も引っ越しやで。
民族大移動。
阿部氏
1823年 武蔵国(埼玉県)忍藩→福島県の白河藩
1867年 白河藩→棚倉藩
1868年 棚倉藩→白河藩
阿部氏は何でこんな目に遭ってる?
阿部氏
1868年2月 棚倉藩→白河藩移封命令
1868年2/24, 阿部家家臣白河城入城。
1868年3月 移封取りやめ。←ドタキャンとか。
「白河城占拠」
1868年1/3, 薩摩藩が幕府軍に発砲し鳥羽・伏見の戦いが勃発。
慶喜は松平容保と共に大坂城を脱出し榎本武揚艦長の船を艦長不在のまま勝手に出航させ江戸に帰城。
1/10, 奥羽諸藩に慶喜追討応援の命令が下された。
2/16 二本松藩は白河城番を解任。
奥羽鎮撫総督府からの命で白河城番は仙台藩に変更。
3/2, 奥羽鎮撫総督の九条道孝から会津藩追討が奥羽諸藩に命じられた。←いきなりすぎる展開。
九条とか言うお公家さん、「義」とか「大義名分」とか知っとんのか?
会津藩が朝廷に弓引いた証拠も無いのに攻撃出来るか?
ちなみに帝のおわす御所の蛤御門を銃撃したのは長州藩な。
今でも蛤御門に銃痕残ってるで。
3/25, 二本松藩に「今般会津追討ニ付、其方儀応援丿手当精々仕リ置ク可ク、且鎮撫使其ノ藩通行丿節ハ、城内本陣タルべキ旨御沙汰候事」との命が下っている。
この時、奥羽諸藩は新政府が画策する会津藩征討ではなく会津藩謝罪による平和的解決の策を練っていた。
4/16に藩主松平容保の寺院謹慎や封土の削減などの条件で会津藩に降伏を約させた。
総督府は奥羽諸藩の出兵が遅い事を怒り17日に二本松藩に出兵を促した。
4/18, 下参謀世良修蔵は仙台藩兵を会津境まで進軍させる。
二本松藩は仙台藩の後詰として土湯口の守備の為六個小隊を出陣させている。
水面下では会津藩征討を中止させるよう動いていた。
4/30, 総督府の命令により攻撃を開始したが戦闘に消極的。
小競り合いで終わらせる。
閏4/11, 奥羽諸藩は白石城に集結。
会津征討を中止させようとする嘆願書は仙台、米沢、二本松、盛岡、守山藩を始めとする24藩が調印。
翌閏4/12, 仙台・米沢両藩主の添書と奥羽諸藩の嘆願書3通を総督府に提出。
会津藩に対する寛大な処置を願った。
嘆願書は拒否された。
再び薩長軍は会津征討の軍を進撃するよう奥羽諸藩に通達。
閏4/20, 会津藩と幕府脱走兵は白河城を攻撃し占領。
前日のうちに奥羽諸藩は会津征討軍を解兵。二本松藩が銃声を轟かせ、それを合図に奥羽諸藩は撤収。
会津藩に明け渡している。
「白河城攻防戦」
慶應4年(1868年)閏4/22, 白河城が会津藩に占領されたという報告を受けた参謀伊地知正治は宇都宮を出て大田原に移動。24日に芦野を出て白河方面へ。25日、白坂に到着。
白坂口には新撰組隊長山口次郞(斎藤一)、会津藩遊撃隊遠山伊右衛門が先鋒。棚倉口には旧幕府純義隊長小池周吾、原方口には会津藩青龍隊長鈴木作衛門が待機。
旧幕府軍の攻防は凄まじかった。
新政府軍は正面が泥田で足を取られ、うまく攻撃出来ないまま芦野まで撤退。
13名の戦死者を出した。
薩長軍は直ちに白河城奪還作戦を再開。700名近くの薩摩・長州・大垣・忍藩の諸隊を芦野に集結。
旧幕府軍は会津藩1000名を始め仙台藩、旧幕府軍純義隊、新撰組、棚倉藩兵等2500名近くが白河城近郊に集結。
新撰組や純義隊は南の境明神に防御線を設け白坂まで探索方を派遣し厳戒態勢を布かなければ白河城は持ちこたえられないと主張。
確か、棚倉藩も白河城在住経験のある森嘉会が家老の平田弾右衛門に白河城は守りづらい城だから城外に打って出ないと簡単にやられてしまう、と助言。
それに対し旧幕府軍の主力会津藩総督の西郷頼母、副総督横山主税はそれらの意見を採用せず棚倉口、白坂口、原方口の3つの入口を固めて攻撃に備える作戦に決定。
容保公に藩が政争に巻き込まれるから京都守護職を引き受けないよう京都まで出向いて説得した程の鳩派。
何で穏便派の人がこの大事な一戦の総督?
この戦いが勝敗を決したと思うで。
ま、いずれにせよ、旧式の武器じゃ薩長軍の最新式の武器に対抗出来なかったとは思うけど。
西郷、横山共に戦争は初めてだった。
白河城は桜町、雷神山、稲荷山、立石山に囲まれている。
「5/1の戦い」
5/1は雨だった。
旧幕府軍の銃は火縄銃。
雨だと点火出来ない。
点火出来ないと発砲出来ない。
使い物にならない。
DSは態と雨降らしただろ。
旧幕府軍の2回目の白河城攻防戦が始まった。
薩長軍は右翼隊、中央隊、左翼隊の3つに分け正面の白坂口を中心に攻撃すると見せかけて白河城下の両側面から包囲攻撃する作戦を取った。
午前4時 まだ暗いうちから薩長軍右翼隊は棚倉口で攻撃を開始。
棚倉口を護っていた純義隊小池周吾、仙台藩兵らが苦戦していると会津・棚倉藩が応戦。
薩摩藩の一隊が桜町付近で戦闘を繰り広げる一方で、別の隊が雷神山の峰続きの丘陵地帯に侵攻、右翼隊は雷神山を占拠した。
午前6時 薩長軍の左翼隊は白河城下西方の立石山を攻撃。
左翼隊を更に3つに分け三方向から攻撃。
会津藩朱雀一番足軽隊中隊頭日向茂太郎、仙台藩の白河城大隊長佐藤官内、参謀坂本大炊が参戦。必死の戦闘が続いたが日向の戦死により全軍総崩れに。
午前11時 立石山は左翼隊に占拠された。
午前八時 薩長軍中央隊は白坂口から進軍、稲荷山を攻撃。
小丸山一帯の広範囲に偽隊旗を立てて主力軍を装った。
小丸山に陣を張った薩摩藩大山弥助は砲撃開始。これに対し稲荷山に陣を布いた仙台藩砲兵が撃ち返し反撃。
薩摩藩は20ドイム臼砲を出動。←キターーーーー!
薩摩藩に最新鋭の大砲。
出来レース!!
更に稲荷山へ右翼隊と左翼隊が侵攻。
包囲された旧幕府軍は孤立。
全滅する恐れが出てきた。
この状況を打開しようと白河城内に待機していた副総督横山主税(若くてイケメン)が稲荷山に駆け付け、北側の斜面を登ろうとしていたところを銃撃され戦死。
薩長軍は新式の銃を持っていたが旧幕府軍は旧式の火縄銃。
雨では使い物にならない代物だった。
ほらね。
根本的に武器が違うんよ。
やる前から勝負が着いてるやつや。
旧幕府軍の戦死者は300名超え。
えがったな、DS共。
一杯死んで嬉しいやろ。
負傷者35名。
薩長軍戦死者10名。
負傷者38名。
正午過ぎ薩長軍は白河城奪還に成功。
「白河城を奪還せよ」
5/3, 奥羽越列藩同盟が結ばれ5/4, 軍議が開催。
二本松藩では「白河城が奪われては奥羽諸藩の同盟は崩れる」と軍事総裁の丹羽丹波を頭取とし参謀を内藤隼人、丹羽右近、高根三右衛門ら主力を動員させる策を練り白河に急行させた。←主力は白河に行っちまったんよ!
だから、二本松城の守備は薄かった。
白河城奪還目指し、5/15, 5/16, 5/21, 5/24 に小戦闘の記録が残るが両軍の統一的な戦闘でな無かった。
作戦を模索していた。
黒装束で刀を武器とし夜間の行動や白兵肉弾戦を得意とした為「烏組」とも呼ばれた。
5/15, 上野寛永寺に籠っていた彰義隊は大村益次郎に砲撃され壊滅。
江戸は薩長軍に制圧された。
ここからの戦闘は惨憺たる戦い。
5/26, 旧幕府軍は総攻撃。
第二次戦。
この日も雨。←火縄銃使えへんやん!
仙台・会津藩兵、衝撃隊が奥羽街道口を攻撃。
大垣藩の鉄砲に苦しめられ、根田まで後退。
白河城下の西方の米村口と原方口は会津藩兵が攻撃。
ここでも大垣・薩摩藩の大砲と鉄砲に敵わず撤退。
大垣藩めっちゃ活躍しとるな。
ちなみに二本松藩主丹羽長国公の正室は大垣藩出身。
城下東方から南方に掛けて長く続く丘陵と南湖がありこの地形を利用した薩長軍の守備は堅く新式のスナイドル銃が巧みに使われた。
何故に薩長軍は新式の連発銃スナイドルで旧幕府軍は雨天だと点火出来ない火縄銃なんだ?
旧幕府軍は30名以上の戦死者。
5/27, 第三次戦。二本松藩兵は石川口の田島に宿陣。仙台、会津、棚倉藩兵と共に10個小隊で鹿島の敵陣を襲ったがたちまち敗走。
5/29, 白河口総督参謀として板垣退助が白河城に入城。
6/12, 第四次戦。田島へ宿陣していた部隊が鹿島へ侵攻。合戦坂に進んだ。激戦の末、鹿島の敵陣を奪取。が、西南方搦目山方面で棚倉藩が敗走し総崩れ。
↑何があったかは穂積忠著「落城 戊辰戦争の勝敗を分けた白河口の戦い」に詳細が。
「合戦坂」の地名は戦国時代に常陸国太田の佐竹軍と白河の結城軍が金山村の金鉱の獲得を巡って合戦を行った地であることに由来。
そして、白河城奪還を目指した大一番が6/12に行われた。
薩長軍1580余人
同盟軍4000余人
白河近郊の関山の山上に陣取る棚倉藩兵が撃つ号砲六発を合図に激突。
棚倉藩兵は平田弾右衛門を隊長とし旧幕府軍純義隊、相馬藩兵と共に合戦坂で戦闘。一時は敵の陣地を奪うも夕刻に形勢逆転。金山に撤退。
6/12の総攻撃に於いて会津藩兵が大谷地、下羽太、白坂方面で、仙台藩兵が和田山で有利な戦況に。が、合戦坂を始め全般的な状況が思わしくなく結局は退却。白河城奪還成らず。
この日の戦闘で棚倉藩は15名が戦死。
下羽太村から進軍した二本松藩の2個小隊は会津藩兵と杉山に進み堀川で激戦。
川を渡り追撃したが薩長軍に側面を突かれ敗走。
仙台藩丙62名、会津藩兵31名、棚倉藩兵13名、二本松藩兵13名が戦死。
えがったな!DS共。
嬉しいやろ?一杯死んで。
6/24, 第5次戦。
薩長軍は5000名を超すまで膨れ上がった。
6/16〜6/20に掛けて平潟の港から増援隊が上陸。
YOU達何しにとうほぐへ?
太平洋に面する平藩を始め浜通りに属する藩と白河藩の間に棚倉藩があり障壁となっていた。
薩長軍は棚倉侵攻を決定。
侵略者やないかー!
侵略すんなコラ!
旧幕府軍も棚倉藩からの応援要請に応え700余名を派遣。
参謀板垣退助、薩摩・長州・土佐・忍・大垣藩の兵800名を率い棚倉攻めへ。
おい!板垣!
な~にが「板垣死すとも自由は死せず!」だ。
お前、ただの侵略者じゃねーか!
前藩主正外が僅かの兵で守備。
棚倉城は忽ち落城。
が、防備を固めていた薩長軍を崩せず。
6/29, 薩長軍は二本松藩が宿陣していた河原田村を急撃。大敗をした。
7/1, 第六次戦。
旧幕軍が大平口から侵攻。
金勝寺山に登り白河城へ砲撃。
奇襲を受けた大垣藩は非常号砲を撃ち味方の応援要請。
薩長軍は金勝寺山と立石山の間から白河城下に侵入した旧幕軍を包囲攻撃。
押し返し阿武隈川の北岸へと撃退。
この時多くの民家が焼かれた。
イギリス支援による薩長軍の圧倒的な軍事力の前に7/4, 秋田藩が奥羽列藩同盟を離脱。元々、秋田藩なんもしてないよな。7/12は弘前藩も。←何もしてない事勿れ主義。
7/13には平城が落城。
7/14, 最後の白河攻撃。
しかし、戦闘意欲が乏しく仙台藩兵42名、会津藩兵2名が戦死。
7回もの奪還戦を展開させた旧幕軍は白河から撤退。
このあと、薩長軍は三春に侵攻。
7/27に降伏させた。
さぁ〜いよいよ、二本松藩攻めが始まる〜。
少年隊頑張れ〜。
7/29, 二本松城落城。
白河が破られた事により奥羽諸藩の形勢は崩れ降伏又は落城していった。
白河は東北の咽喉だった。
白河口の戦いでは両軍合わせて1000名以上が戦死。
えがったな!DS共。
1000人も人口が減って。
笑いが止まらんやろ。
市内には墓や供養碑が50以上。
二本松藩の戦死者は23名。
DS共の喜ぶ顔が想像出来たところで今日はここまで。
16時半から夕食作り。
ホッケ、赤魚の粕漬、ローストポークと付け合せのじゃがいも、ネギ、人参、温玉帆立ワサビマヨネーズサラダ、ズッキーニのべったら漬け風。
ウォッカ梅酒ロックと共に美味しく頂いた。
お皿を洗ったら営業終了。
歩数計は8451。
充実した一日だった。