2024/6/7金曜日
4時半に起床し洗濯と朝食、昼食作り。
7時過ぎに畑へ。
持参した苗を植え、竹酢入りの水を撒いていると里芋の芽が2つ出ているのを発見。
悪魔くんによる悪戯。
里芋の株間は45〜50cm。
わいはそれを守って種芋を植え付けたんよ。
しかも、ご丁寧に例の緑色の液体まで掛けている。
わいの予想だとこの液体は成長を阻害し脱色させる物体。
これを掛けられた作物は根が弱り白っぽくなる。
葉が枯れ、実の色が薄くなる。
芽が出ていない所に植え替えたら竹酢液を掛けて労わった。
9時半に作業終了後、スーパーで買い物してから帰宅。
昨日から広瀬仁紀著「青蓮院の獅子」を読んでいる。
青蓮院宮は幕末当時の皇族にあって随一の傑物でありながら余り知られていない。
孝明天皇の父、仁孝天皇猶子なのて孝明天皇にとって、義理の兄である。
15歳の若さで即位した孝明天皇にとって頼りになる兄で良きアドバイザーだった御方だ。
それなのに、先日知った孝明天皇による譲位を表明した宸翰で後継は伏見宮か有栖川宮に譲る、とあったのを見て何故?と疑問に思っていた。
この本を読んで疑問が解けた。
まずは「天子の信任は青蓮院宮にことさら厚い」、という事実から。
↑これは、老中首座の堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得ようと上洛した際、随行した川路聖謨に語った言葉。
幕閣の間でも青蓮院宮が孝明天皇のブレーンである事は周知の事実だった。
そして、ページは進み、1858年6月下旬、井伊直弼は日米修好通商条約を調印。
これに対し孝明天皇は激怒。
程なく宸筆の親諭が置かれた。
孝明天皇による親諭の部分のみ書き出してみた。
英明之人ニ帝位ヲ譲リ度候
差当祐宮有之候共
天下之危急ニ化拘ル
一重大事之時節ニ、
幼年之者ニ譲リ候事
本意ナキ事
依之伏見有栖川三親王之中へ
譲リ度存候、、、。
「帝位を譲位する」と天子は宣言している。
これに対し、青蓮院宮は義兄として孝明天皇を滾々と説得。
「譲位は止め国事をご覧あそばせ」と言うと孝明天皇は頷いた。
次のページで青蓮院宮は「身は僧門」と言っている。
あー、だから後継者のリストに入らなかったのか、と納得。
宮が還俗するのはもう少しあとの話。
宮は法親王の時は青蓮院宮、粟田宮、獅子王院宮と呼ばれている。
その後、還俗し中川宮となったのち、朝彦という諱を賜り尹宮、賀陽宮、久邇宮と宮号も変わっていった。
まだ100ページしか読めていない。
が、このあとも宮は孝明天皇を守る為に激動の日々が続く。
安政の大獄で宮は隠居永蟄居処分になる。
更に天皇の大和行幸に絡んで、孝明天皇から長州と過激派公卿を追い出すよう頼まれそれを実行。→七卿落ち
更に、それを恨まれ長州による中川宮邸放火計画も露見。→池田屋事件で首謀者達を新撰組が捕縛。
これに関しては古高俊太郎のウィキの説明がわかりやすい。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E9%AB%98%E4%BF%8A%E5%A4%AA%E9%83%8E
玉(帝)を拉致したい長州軍に蛤御門に発砲されるも会津藩と桑名藩に守られ事無きを得る。
御所を攻めるとか尊王攘夷が聞いて呆れるわ。
上記の事変の詳細が書かれている事に期待しながら読み進める事に。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書。
17時から夕食作り。
ブリのムニエル、牛蒡と蒟蒻と人参の炒め煮、野菜炒め、大根とキュウリのべったら漬風、サラダ、カマンベールチーズonクラッカー、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
お皿は長男が洗ってくれた。
ありがたく、読書の続き。
歩数計は10212。
充実した一日だった。