2024/6/10月曜日
4時に覚醒。
まずは、最新情報をチェック。
5時に起床し洗濯と朝食、昼食作り。
雨が上がった8時過ぎに畑へ。
今日もズッキーニの花が百花繚乱。
良く見たら実が成っていた。
夢中になって色んな作業をしていたら11時に。
帰宅後、汗だくの服を着替え、収獲した野菜を洗っていたらあっという間に食事の時間に。
12時に昨夜以来の食事。
お腹が満たされたら読書。
今日も青蓮院宮本。
と思ったら、因幡二十士事件が出てきた。
事件の遠因は、慶喜公の異母弟慶徳公が8/12の大和行幸偽勅で天皇が軍勢を引き連れて大和行幸を行いそのまま攘夷親征を行う計画を知り慌てて参内。
強く反対した。←至極真っ当な行動だと思う。
これにより8/16に洛内の複数箇所に松平慶徳は逆賊と貼り紙をされた。
これに衝撃を覚えた鳥取藩尊攘派は慶徳公の側近が唆したとした。
河田佐久馬ら22名が本圀寺に押しかけ重臣黒部権之介、高沢省巳、早川卓之丞を斬殺。
加藤十次郎を自殺に追い込んだ。
↑全く意味不明な襲撃。
しかも22対4て。
当時の日本が「尊王攘夷論」に洗脳されていたのがわかる。
ちなみに、事件当時の孝明天皇はこれまで通り徳川幕府に外国対応を委任したいと考えていた。
だって天皇は武力(軍)を持っていないから自ら攘夷出来ない。
だから帝は帝の武威を示すのが目的の大和行幸に反対。
因幡藩主慶徳公も反対。
両者の意見は一致。
間違っているのは貼り紙の内容。
これもまたフェイクニュースに騙されとる。
貼り紙した奴らは「騙される奴が悪い」て思ってるで。
惨殺された重臣黒部権之介は死ぬ間際、樊六に「騙されおって!」と言い遺している。
話は青蓮院宮に戻る。
八月十八日の政変で長州と七卿を追いやってから宮の周辺で凶事が突発。
①嘗ての住まい、青蓮院の門前に支離滅裂で何がなにやら天誅を恫喝しているらしいとしかわからぬ張紙をされた。←是非読んでみたい。
②宮家の用人高橋健之丞が大坂道頓堀相合橋に近い旅館中尾屋で斬殺される。同宿の家来両名は夜具の上から刺殺され踏み込んできた5,6人の刺客に気づき脱出しようとした高橋は床の間で首級を打ち落とされる。耳から鼻の下にかけては削ぎ取られて無い。←耳削ぎ行動は戊辰戦争での薩長軍あるある。
耳を削がれ惨殺された高橋の首は大坂本願寺難波御堂台所門前に晒された。貼り出されていた斬奸状には「、、、恐れ多くも尹宮様御用人と相成、当今多端天下既に地に落ちんと欲る勢ひ、共に天幕奉救之筈なるに、、、」などと書かれてはいるがそれは青蓮院宮に対する面当てであり脅迫。京の市中では攘夷浪士が長州に尻押されて中川宮さんを脅しているのちゃうか?と噂された。
薩摩、越前、土佐、宇和島などの有力諸侯が帰藩した今、京は空白地帯が増え長州征討は棚上げに。
青蓮院宮の密偵の探索により長州藩士と諸国脱藩の者達が池田屋で会合し青蓮院宮と容保公の襲撃を計画。2人の共通点は孝明天皇からの信任が厚い事。
口では「尊王」と言いながら尊王の信任厚きお二方を殺そうと計画するとは、こはいかに?
容保公は手練れの家来衆に囲まれているが青蓮院宮は宮侍のみ。密偵は市中を巡回している新撰組に投文する事に。
が、新撰組も密偵を忍ばせていたらしく投文する前に祇園八坂神社の宵宮、6/5、池田屋に突入。近藤勇隊5名が20名を相手に勝利。肥後の宮部、長州の吉田稔麿等7名を斬り伏せ怪我人4名捕縛2名。
浮浪の徒は烈風の日を選んで洛中の四方に放火し混乱に乗じて天子を奪う予定だった。
↑この火災は蛤御門の変で起きている。↓
元治元年8/19の火の手は河原町筋の長州藩邸から上がり、長州勢の銃火によって御所周辺の町屋が火に包まれた。
不幸にもこの時期の京の空は異常な干天が続き7月4日以来おしめり程度の夕立が3度ほどあっただけ。当日までほぼ45日間晴天が繰り返され空気が乾燥しきっていた。2箇所から発生した火焔は折から烈風となった北風に煽られ一陣の紅蓮の帯と化し激しく南へ燃え広がった。その夜の凄まじい光景を東塩小路村の庄屋若山要助が己の日録にこう書き残している。
、、、其内日も暮に及び火勢増々強く相成、六角辺一面の火となり、西は西ノ洞院東ハ河原町辺なり、、、。
火災に対する恐怖は21日になっても、一向に変わらす、
、、、土蔵江火入所々に火の手上がり類焼いたし候、、、、、とも若山福助は記している。
ウィキ(どんどん焼け)によると、この火災で二万七千戸が焼け出され340名が犠牲になっている。
今日はここまで。
17時から夕食作り。
鮭&ししゃも、チキンとサツマイモとカボチャとじゃが芋のオーブン焼き、スティクサラダ、春菊とスイスチャードとサラダビーツのバルサミコ酢サラダ、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
お皿を洗ったら営業終了。
読書と調べ物をしてから寝ることに。
歩数計は8213。
充実した一日だった。