2024/6/5木曜日
4時半に起床し洗濯と朝食、昼食作り。
ベランダに出るとアップルミントの鉢の中に悪魔くんお手植えのカボチャの苗を発見。

記念にプレートも作成。
何とかこの混植を活かそうと調べたが、カボチャとミントの混植をお勧めする情報は無かった。
残念ながら植え替える事に。

朝の家事を済ませたら8時に畑へ。
里芋の芽を発見!

しかーし、同時にすぐ横のじゃが芋の畝に緑色の液体も発見。

大根とカブの畝横にも緑色。

カボチャの横にも。

すかさず竹酢液をジョウロで掛けて栄養補給。
10時過ぎに作業が終了。
スーパーで買い物をしてから帰宅。
長女に加え長男もお弁当を持っていくようになったら食材の減るペースが半端なく早くなった。
買い物に行く回数が増えた。
11時過ぎに帰宅。
そのまま食事の用意。
12時に昨夜以来の食事。
お腹が満たされたら読書。
昨日に引き続き「窮鼠の一矢」
村上藩家老の鳥居三十郎は若き藩主信民の「領民の平穏を守りたい」の遺志を熟考。
江坂與兵衛と共に策を練った。そして、1869年8月11日早朝, 遂に薩長軍が村上藩領内に。敵に攻め込まれ塩谷口の台場から撤収してきた村上藩軍は三日市村で敵を防ごうとしたが敗北し帰城。七湊村台場も敵の手に。午前10時、村上城の鐘が激しく鳴り響いた。これは万が一の時村上家臣団全員が集合する合図。三十郎は臥牛山から馬で駆け下り藩士達の集まる桜馬場の真ん中で大音声を上げた。「者共、良く聞け!」皆が三十郎を注視。三十郎は先祖伝来の甲冑を身に着け真っ赤な陣羽織をはおっていた。陣羽織の背中には真っ白な糸で神社の鳥居の図柄が縫い込まれている。妻の錞(じゅん)が心を込めて縫い上げた。

https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/murakami_kikaku/1356753799895.html
「我等はいよいよ最後の一戦に挑む。40歳以下16歳以上は全員私に続け。これから庄内へ向う。信民公の養子で我等が主君となる禎吉郎樣の元で共に庄内藩と手を携えて大敵を討つのだ!」

庄内藩と共に戦う、という言葉に「籠城して城を守るのではなくて?」との突っ込みが相継いた。
そうこうしているうちに背後で村上城が炎上し始めた。
村上城への放火を足軽の大栗峰右衛門に命令したのは鳥居三十郎。
峰右衛門は一月前の戦いで一人息子の助吉を失っていた。死に場所を求め60歳だが参陣したいと申し出た。足が悪く引き摺っている。そこで三十郎は城への放火を依頼した。そこに城があるから籠城しようとする。そうすると薩長は城に来るまでに城下を燃やしてくる。それでは領民が被害を被る。自殺した藩主信民は領民の幸せを願っていた。その遺志を顧み、野戦に打って出る事に。籠城派の拠り所となる城は燃やす事に。帰る城が無いから必然的に城外へ。城下は戦火から免れる。

即座に三十郎に従った者は50名。
一旦帰宅し戦準備をしてから参加した者200名未満。
程なく庄内藩の酒井正太郎が出迎え。
↑村上藩の諸事情を知った上で受け入れてくれた。
鳥居隊は酒井正太郎配下となり小俣村に駐屯。その家族は先へ進み鶴ケ岡城下で保護される事に。
村上城下に残った藩士達は薩長軍の命令で庄内攻めの先鋒として300名が動員された。
鳥居三十郎隊と同士討ちという背後に居るDSの奴らが涎を流して大喜びする展開に。
8/26, 三十郎隊は小俣村中ノ峰に陣を置いていた。そこへ散開し発砲しながら進んでくる恭順派村上藩士達。ここで西軍への忠誠心を示す事が重要だった。兵力は西軍700に対し庄内軍千名。恭順派の名代官牧大助と関菊太郎が銃弾に斃れた。三十郎は戦いに得意の弓矢で参加。3名を仕留めた。
鳥居三十郎は8月から庄内藩が降伏する9月まで鼠ヶ関に駐在。
鼠ヶ関では庄内藩の榊原十兵衛政敏、田宮流槍術達人、が大砲隊長として活躍。
彼は8/22から鼠ヶ関に着陣するや屋根付きの砲眼を備えた砲塁を次々構築。実戦では着弾した弾を確認しその大砲の癖を見抜き砲兵に細かい指示をした。
鳥居三十郎は8/27に鼠ヶ関に到着。そこで、多くの武装した町人・農民で溢れ返って居るのに驚く。聞くと庄内藩全兵士4500名中2000名以上が農民や町民。村上藩ではありえない。
藩主や藩士と領民の関係は余り良くなかったらしい。
この参陣で三十郎にも心境の変化があった。敵を目前に三十郎は撃たれ倒れた農兵の熊蔵に「友よ」と手を差し伸べ引き起こした。そして、背負った矢筒から一本の鏑矢を取り出しぎりぎりと弦を引き絞り天に向かって矢を放った。

↑ここ、この本のクライマックスシーン。
表示の絵にもなってる。

マジ、カッコいい。
鉄砲ダダダダダダダダに対して弓矢ビュン!よ。
敵も味方も一斉に攻撃の手を止め赤い陣羽織の若者に目を向けた。
陣中日誌を付けていた三十郎のこの日の日誌には名字の無い6名の名が記されていた。栄太郎、平吉、忠平、八太郎、捨蔵、寅次郎。恐らく町民か農民であろう。
それまで領民を顧みる事の無かった若き家老はここまで意識が変わった。

そして、薩長軍は責任者の首を出せ、と言った。
三十郎は自ら名乗り出て、東京で斬首刑を言い渡された。
刑の執行は村上藩で、更に、切腹に変更されたのはせめてもの救い。
28歳の若さで藩を守り切った。
哀悼。
17時半から夕食作り。

鶏ももと砂肝の唐揚げ、ズッキーニとじゃが芋のカレー炒め、高野豆腐とネギと人参の葉の明太子炒め、サラダ、味噌汁、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
お皿を洗ったら営業終了。
歩数計は9281。
充実した一日だった。