2024/5/10金曜日
5時半に起床し洗濯と朝食、昼食作り。
洗濯物を干すついでにベランダガーデニング。
8時に畑へ。
まずは作物チェック。
すると玉ねぎの葉の大部分が茶色く枯れてしまっているのが多々あった。
夫が菜園仲間に尋ねると、それ以上玉は大きくならないので収穫した方が良い、との事で急遽収穫する事に。
大小様々。
早速夕食で頂く事に。
9時半に帰宅後、読書と調べ物。
昨日に引き続き「京都守護職始末1」
長州勢と過激派公卿の行動がヤバいのはわかった。
ただ、時たま登場する薩摩藩の島津久光公の建白書や建議の中身は気になった。
だって、素晴らしいんですもの。
久光公が文久2年に初上洛した際の建白書は既に紹介済みなので省略。
そのあと、勅使の大原卿を江戸まで警護。
帰りに生麦事件が起きている。
2度目の上洛は文久3年。
3/14, 中川宮と鷹司殿下に拝謁。
建議を行った。
①攘夷の御決議軽率の儀、然るべからず事。
②後見(慶喜)、総裁(慶永)を奴僕の如く御対遇あって浮浪藩士の暴説を信じぜられるのは最も然るべからず。且つ御膝下に於いて法外の儀これあり候をそのままに召し置かれ候儀は朝憲、幕令も行われざる姿にて、ただ乱世の基と嘆息に堪えず候事。③右につき、暴説を信用の堂上方は速やかにお退け浮浪藩士の暴説家は幕府より所置あるべき事。
④宮(中川宮)、前関白(近衛前殿下)、中山、正親町三条等は、以前の如くご委任の事。
⑤天下の大政は征夷大将軍へご委任の事。⑥長州父子の所存を後見より質問あるべき事。
⑦御親兵一条の事。
⑧無用の諸大名、藩士は全て帰国さすべき事。
⑨主命の他は藩士へご面会御無用の事。浮浪は、とりわけ然るべからざる事。
⑩主家亡命の者を信用は然るべからざる事。
⑪英国の一条、諸外国の一条。
⑫神宮御守衛として親王方をさしつかわされ候はもっとも然るべからざる事。これは近国の大名へ命ぜられて至当の事。
⑬浮浪藩士の心底よく御勘弁これありたき事。
正論も正論。
ド正論。
文久2年の初上洛時の建白書の時から全くブレていない。
こうなると、久光公の事が気になってくる。
斉彬公亡き後、藩主の実父として藩の実権を握っていた久光公はこれ程までにまとも。
なのに、薩摩藩はなんで江戸騒擾作戦や戊辰戦争おっぱじめる事になったのか。
そこで一緒に借りてきた安藤優一郎著「島津久光の明治維新〜西郷隆盛の"敵"であり続けた男の真実」を読むことに。
これによると、久光公は一度目の上洛での建白書により禁裡より京都の鎮撫を命ぜられた。
それにより浮浪の輩を取り締まったのが寺田屋事件。
立場上致しなかった。
更に、江戸で斉彬公の遺志でもあった「慶喜公を後見職、慶永公を総裁職に」という人事を実現させた。
が、久光公が京都を留守にしている間、「破約攘夷論」が朝廷内を席巻。
公武合体策を進めたい幕府が天皇に「10年以内に攘夷を実行する」と密約したことが漏れてしまった為だ。
長州藩は破約攘夷に藩論を転換させ過激派堂上の後ろ盾に収まる事で主導権を握ろうとした。
これに危機感を抱いた久光が近衛忠煕父子に建白書を提出し「朝廷は幕府に攘夷を命じてはならない」とした。
わかっとるやないかー、久光公。
安易な攘夷はアヘン戦争やアロー号事件の中国と同じ轍を踏む事になる。
何故かというとこの時点で日本は火力で欧米の足下にも及んでいない。
中国は、それでも立ち向かった事で市井の民が大勢戦火に巻き込まれ犠牲となっている。
その事実を知るリーダーは攘夷を唱えない。
が、京都では猫も杓子も「攘夷!攘夷!ジョーイ!」
幕府首脳を煽りまくった。
過激な尊攘派志士による「天誅」と称した殺傷事件も頻発。←天に謝れ!
その対象は破約攘夷論に反対する幕府寄りとみなされた者達だった。
誰か、この殺人犯達捕まえなかったのか?
奉行所の仕事じゃねーの?
京都市中はテロリストが跋扈。
見兼ねた幕府は京都守護職を新設。
ここで会津藩が登場するわけよ。
京都の街を鎮撫する為に。
で、新撰組と協力しあってちゃんと仕事したんだぜ?
で、天皇からお褒めの言葉も頂いたんやで?
なのに、なんで朝敵?
なんで官賊とか言われなあかんの?
誰もが嫌がるテロリスト相手の危険な仕事を引き受けたのに?
長くなったので今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書と調べ物。
17時半から夕食作り。
ブリカマ、ナスと鶏モモと蓮根のバルサミコ酢炒め、カボチャとモヤシの味噌粕汁、オニオンスライス、大根サラダ、焼き芋、お汁粉、昨日の残りの牛すじ煮込み、茹で落花生。
ウォッカ梅酒ロックと共に美味しく頂いた。
お皿は長男が洗ってくれた。
ありがたく読書の続きをする事に。
歩数計は6499。
充実した一日だった。