2024/4/2火曜日
5時半に起床し洗濯と朝食、昼食作り。
今週のフットサルはコーチの都合でお休み。
8時45分に火曜テニスへ。
男子4名女子2名が参加。
対面でのミニラリー、ボレー対ストローク、サーブからのクロス反面1対1を済ませたら10時半からお楽しみのゲーム。
ジャンケンで順番を決め、1ゲームローテーションで楽しんだ。
11時にコートを移動し、ゲームを継続。
12時半まで楽しんだ。
13時に帰宅後、昨夜以来の食事。
夫には焼きそばを用意。
自分は玄米ご飯と納豆と味噌汁メインでお腹を満たした。
午後は読書。
戊辰戦争に関する本を数冊借りた。
まだ38ページまでしか読んでいないがこの本の良い所は鳥羽伏見の戦いに至るまでの経過が簡潔に述べられていること。
要約するとだな、1867年、岩倉や大久保が倒幕の密勅を朝廷からゲットしようとしているという情報を得た徳川慶喜は先手を打って10/14、大政奉還をした。
が、どうしても幕府を倒したい大久保と西郷は12/9に16歳の明治天皇に王政復古の大号令を発令させた。
これに先立ち、大久保と西郷は12/2、土佐藩の後藤に「王政復古をクーデター方式で決行する」と告げている。
この王政復古クーデターを決行する為に前日の12/8夕刻から御学問所で朝議が開かれた。
摂政関白、左大臣、右大臣、内大臣などの公卿を始め将軍慶喜や京都守護職松平容保、京都所司代松平定敬も召集されたが、慶喜ら3名は不穏な動きを察知し欠席した。
午後11時、①長州藩毛利父子の官位復活と入京許可、②三条実美はじめ「八・一ハ政変」で追放された五卿も官位復活・入京許可、➂岩倉具視ら謹慎中の公卿の蟄居解除・還俗許可といった重要事項を決定し閉会。
翌朝、12/9の午前10時に御所北門の乾門から薩摩藩兵三千が入場。
西郷の指揮の元、御所内に兵を配備。
御所の内外諸門をがっちり固めた。
↑薩摩藩による軍事クーデターや。
軍制を布かれた中、明治天皇は小御所に出御。
王政復古の大号令を発した。
王政復古なのだけれど、何故か関白、摂政、征夷大将軍といった数千年続いてきた伝統的役職を全廃。
これらの職に就くには家柄の縛りがあるからね。
これらに代わり「総裁、議定、参与」という三職を設けた。
尚、新しい三職の何れにも徳川慶喜の名前は無い。
その日の午後8時から新三職メンバーにより小御所会議が開催され、議題は徳川家処分。
何も悪い事してないのに?
めちゃくちゃやっとんな。
で、山内容堂がこの場に慶喜が居ないのはおかしい、欠席裁判は良くない、と発言。
岩倉がその迫力にタジタジとなるも、休憩時に西郷からバックに薩摩軍が居るで、と勇気づけられ、後藤に山内容堂を説得させ黙らせた。
何せ軍事クーデターだもの。
このあと徳川家は領地を返上させられ400万石から駿府60万石に。
これが、幕末に起きた大政奉還からの王政復古クーデターの経過ですわ。
このあと、幕府と戦争をする為に、西郷は江戸で浪士隊を組織。
幕府を煽る為に彼らに江戸で強盗や放火をさせまくる。
まるでウクライナがロシアを煽る為にドンバス地方を砲撃したのと同じ構図。
歴史は繰り返される。
岩倉や大久保、西郷等を裏で操っていたのはパークス、グラバー、アーネスト・サトウなどのフリーメイソン。
彼らは傀儡として操れる岩倉や大久保、西郷に政権の中枢になってもらう必要があった。
その為に金に糸目を付けず資金援助。
日本の戦争や革命で支配階級を潰して排除すれば自分達の天下が訪れる。
勿論、その傀儡政権は現在も続いている。
裏で操っているのは日米合同委員会。
この外人達を追い出さないと日本はいつまでたっても植民地奴隷生活から脱却出来ない。
岸田政権が向いている方向は国民ではなくフリーメイソンのピラミッドの上の人達。
言う事聞いてお金を上納して少しでも上の階級に上がろうと必死ですわ。
17時から入浴。
18時から夕食作り。
ししゃも、鶏モモのバルサミコ酢炒め、味噌汁、煮物、サラダ、沢庵、チーズ、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら読書の続きをすることに。
歩数計は15104。
充実した一日だった。