2024/1/19金曜日
5時半に起床。
まずは米麹の「盛り」の作業。
品温を測定している間に発酵器内の水滴を拭く作業。
品温は40℃を超え順調。
麹蓋に分け入れたら発酵器内へ。
次に、洗濯と朝食作り。
やる事やったら10時に自転車で出発。
サイクリングへ出かけることに。
まずは大宮第2公園の梅林へ。
まだ、一部咲きくらい。
大宮公園の梅はどうだろう?と移動。
そちらはもっと咲いていなかった。
梅鑑賞が終わったら、北部市税事務所へ。
それは大宮区役所内にあった。
納税課で住民税支払い猶予申請書類を提出。
ミッション完了したら11時。
昼食会場の大宮市場を目指す事に。
11時50分に昼食会場の「花いち」に到着。
食べ始めてから慌てて撮影。
美味しく頂いた。
12時半に帰路に。
13時に帰宅後、まずはお風呂。
スッキリしたら読書。
メインの舞台は下田。
1854年にアメリカと日米和親条約を結んだ事を聞き及んだロシアはプチャーチンを再派遣。
長崎の時と同じく川路と筒井が交渉人として対応。
連日、ロシアと交渉している時にそれは起きた。
この安政の大地震は翌年1855年11月11日に江戸で起きた大地震も含む。
この、安政トラフ地震とも言われる地震は1854年から1855年に掛けて東日本から四国まで被害が及んでいる。
2年掛けて日本を破壊しまくった。
奇しくも1854年に黒船ペリーが来航してから日本は災難続きに。
交渉地である下田は大地震に加え大津波にも襲われ下田沖に停泊中のディアナ号は洗濯槽の中に居るようなきりもみ状態に。
結果、修理が必要な状況に。
下田は街が津波で潰滅状態。
他の港で修理する事に。
ロシア側と共にディアナ号が停泊出来る港を伊豆半島の海岸沿いで調査。
すると戸田(へだ)村が見つかった。
が、受け入れて貰える事に。
1月3日、風もなく海も凪いでいるのでディアナ号は戸田港へえい航されるべく下田港を出航。
ところが、突如沖に黒雲が出現。
強風が吹き荒れ宮島村(富士宮市)へ流されて行った。
更に船は壊れ沈没の危機に。
プチャーチンは船を捨て乗組員をボートで避難させる事に。
が、強風による高波で海は大荒れ。
ボートは大波に揉まれながら岸を目指した。
海岸でその様子を見守っていた宮島村の漁師は体に太綱を巻き付け危険を冒しボートへ向かって泳いだ。
そして、ボートの綱を掴むや、今度は海岸でディアナ号を見守っていた村の男女が一斉に綱を引いた。
この光景を見た司祭のワシーリイ・マホフはその折のことを「フレガード・ディアナ号航海誌」に「この善良な男女に永遠に幸あれ!そして銘記されよ!500人もの異国の民を救った功績はまさしく日本人諸氏のものであることを!あなた方のおかげで唯今生き永らえている私たちは1855年1月4日の出来事を肝に銘じて忘れないであろう!」と感謝の念を記しているそうだ。
1月4日て今時分。
めっちゃ寒い。
これを何度も繰り返し総勢500名がディアナ号から無事に退避。
全員ずぶ濡れよ。
めっちゃ海水冷たいやん!
寒さで死ねるレベル。
しかも、宮島の人々は自分らも家を流されて被災しているのに、ロシアの人々寒いだろう、て大急ぎで囲いの納屋と日除けを作って悪天を避けられるようにしてくれたそうだ。
また、敷物や衣類、食料を運んできてくれたそうだ。
更に、寒さでガチガチ震えているロシア人に自分らが着ている上着を脱いで着せたりしたそうだ。
これが真の日本人よ。
こんな善良な人々をDSの奴らは騙くらかしてワクチン打ちまくったんよ。
だいいち、この安政の連続大地震も突然の黒雲と強風もDS臭プンプンしとる。
プチャーチンも下田の町の人々も伊豆の山の方に赤い火や光る玉を見たと言ってるし。
1854年にもやっとるな。
歴史は繰り返されるんよ。
17時半から夕食作り。
玄米ご飯、べったら漬、牛蒡と蒟蒻のきんぴら、納豆、ポテトサラダ、豚の味噌漬け、昨日のブリあら梅汁の残り、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書の続きをする事に。
歩数計は8356。
充実した一日だった。