2024/10/9水曜日
4時に体が沸騰してるような感覚で覚醒。
布団の下もめっちゃ熱い。
何さらすねん。
わいを蒸し焼きにする気か?
汗びっしょりの服を総着替え。
布団も畳み、絨毯の上に寝る事に。
7時に再起床。
昨日、今日と雨続き。
今日も洗濯を休みたいが子供等から苦情が来そうなので洗濯をし浴室乾燥する事に。
勿論、畑もお休み。
9時から読書。
今日は安廷苑著「細川ガラシャ」
イエスズ会は1534年にスペイン出身のイグナティウス・ロヨラがパリ大学に学ぶ若い聖職者達と共に設立したカトリック修道会。フランシスコ・ザビエルもその創設時の中心メンバー。
イエスズ会の創設は当時流行していたプロテスタンティズムに対抗するカトリック教会の一つの動き。イエスズ会はポルトガルに承認されポルトガルの海外進出の枠組みによって海外布教をすることに。
イエスズ会の布教方法は支配者達を改修させれば配下の者たちが続いて改宗するはずであるとする「上からの布教」
本能寺の変後、光秀は親交のあった高山右近に対して援軍を要請。が、オルガンティーノは援軍要請に応えてはならぬと助言。イエスズ会は布教地の戦争に介入しない事を原則。→荒木村重攻では信長に高山右近の寝返りの説得工作をやらされているけどね。
そして、話は遂に細川ガラシャの最期について。
史料の「霜女覚書」に関しては東京大学史料編纂所准教授の金子拓氏が要点を簡潔に纏めて内容を紹介。
それを参考にしながらガラシャの最期について見たい。
石田三成が細川邸に派遣した軍勢で急襲する段になって細川邸では次のように危機管理対策。
少斎、石見、稲富が談合。稲富が表で敵を防ぎその隙に奥方様が最期を迎えられるよう話し合ったので稲富は表門に居た。
その夜の始め頃、敵(石田軍)が後門まで寄せてきた。稲富はその時心変わりを致し敵と一緒に。その様子を少斎が聞き最早これまでと思い長刀を持ち奥方様の御座所へ参り「今が御最期でございます」と申し上げました。
少斎が介錯に太刀を使わず長刀を使った事が現場の緊迫した状況を示している。
事前の申し合わせでは稲富直家らが応戦している間に少斎がガラシャを介錯する予定だった。が、稲富直家が寝返った為、少斎は戦闘用に用意していた長刀でガラシャを介錯。→色んな想いが過ぎったと思われる。1547年生まれの少斎は12歳で元服した際、玉子の実父足利義輝に拝謁。その後、18歳で永禄八年の変に遭遇。父子で浪人に。美濃に住んだらしい。この辺りは光秀と一緒か。そして、玉子が忠興に嫁ぐ際、明智家臣として付き添って来た。味土野幽閉時にも付き添ったと思われる。更に、玉子から、代わりに教会へ行き教えを受ける事を言われ度々教会へ。後に受洗。子の小笠原玄也は後に一家で殉教。
7/17のガラシャの死により石田三成は大坂城下の諸大名から人質を取ることを止めたそうだ。
更に、上杉征伐の為、東下していた家康軍は三成挙兵を聞き反転。大坂へと進軍する途中でガラシャの死がもとらされた。忠興を始めとする皆が「三成を滅ぼして讐を報じる」と一致団結。8/23には岐阜城を攻略。9/15に関ヶ原の戦いに臨んだ。
忠興の父藤孝は7/20, 丹後田辺城を西軍一万五千の大軍に包囲されてしまう。細川家の軍勢は忠興が率いてた為藤孝の元へは僅か500の兵。それでも降参せず徹底抗戦の構えを示した。恐らく全員討ち死に覚悟で。この時、八条宮智仁親王が藤孝が亡くなる事で古今伝授が絶える事を惜しみ包囲を解くことを要請。が藤孝は開城の要求を受け入れなかった。結局、後陽成天皇が勅命によって包囲を解かせて開城。藤孝は九死に一生を得た。
ガラシャの守護と天皇のお墨付きのついた細川家、最強やないかー。
大加増された細川家は後に旧足利幕臣衆を大勢受け入れたのであった。
今日はここまで。
咳と鼻水が凄くて、今夜の夕食は大して作れそうに無い。
電磁波攻撃はわいに悟られないよう超微弱設定。
しかし、夜間は盛大。
可視光線が下から湧きまくりバレバレ。
歩数計は2111。
充実した半日だった。