arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1106日目と畑と信長と十字架②

2024/9/22日曜日

5時15分に起床。

5時35分に畑へ。

カボチャの弦を片付け冬瓜の弦を整枝し水遣りを済ませたら帰路に。

7時半に帰宅後、ベランダガーデニング。

雨が降ったり止んだり不安定な天気なので洗濯はお休み。

今日はベランダで是非ともやりたい作業があった。

ズバリ、コガネムシの幼虫の有効活用。

コガネムシの幼虫は植物の根を食い荒らし枯らしてしまう害虫。

しかーし、糞を一杯してフカフカの土を作ってくれたりもする。

なので、堆肥作成用のどデカいコンテナの中で余生を過ごして貰う事に。

コガネムシ幼虫被害に遭った鉢植え達の中から出てくるわ出てくるわ。

ショベルの一すくいに3匹居る事も。

金魚掬いなら嬉しいけどな。

多分50匹近く掬った(笑)

ここの所、頭の中はコガネムシの幼虫をどうするかで一杯だった。

ゴミ袋に入れて処分で良いものか。

生態系や食物連鎖やら色々考えた。

ま、これも実験ですわ。

9時半に作業終了&シャワー。

やる事やったら読書。

 

昨日に引き続き立花京子著「信長と十字架」

 

天文22年(1553年)大苫宗麟は過去3年間の年札を義輝に納めて肥後守護職を要請。その見返りとして義輝は新兵器の南蛮鉄砲を宗麟から入手。宗麟による初回鉄砲献上は翌年の天文23年(1554年)1月。その甲斐あって宗麟は同年8月に肥前守護職に補任される。

足利義輝期の舞台廻し役、大友宗麟

エスズ会のバテレンと結託したポルトガル商人は天文中期にまず大友宗麟を仲間に引き入れる。

天文末期に宗麟は鉄砲を始めとする多額の献上品を介して足利義輝を援助。その帰洛を実現。更に、豊後府内に滞在するポルトガル商人は堺の日本人商人と結びついて宗麟の将軍支援を仲介する。

吉田兼右と清原枝賢は親戚同士。

潜在的キリシタンでイエスズ会協力者。

永禄十年(1567年)11月に於ける第2回決勝綸旨発給の時、即ち、天下布武印制定の段階について説明。

「政秀寺古記」に信長が禅僧の宗恩沢彦に地名「岐阜」と印文「天下布武」を選定させた事について次のような記事が見られる。

信長は(「岐阜」を選定した)沢彦の言葉に大変喜び褒美として名盆に黄金10枚を積み「黄金は世間に多くあるが盆は豊後の屋形(宗麟)からの進上品である。秘蔵せよ」と述べて与えた。

信長登場の舞台廻し役と位置づけられた宗麟は信長に贈り物。←な?信長は傀儡だったろ?イエスズ会の。

天下布武」の理念と決勝綸旨の発給が宗麟の尽力によりイエスズ会との関連に於いて実行された。宗麟が信長の全国制覇を目的とした上洛準備を早期から熟知。支援していた事の証左。

ここで、はて、「決勝綸旨」とは?となりページを戻り熟読。

信長への決勝綸旨は弁官勧修寺晴豊が奉ずる綸旨。信長の美濃攻略を異常なまでに称賛。「今度、国々(尾張・美濃)を本意に属した事は武勇の長上であり天道も感応するところ。(信長は)古今無双の名将である。いよいよ勝ちに乗ぜられることは勿論、特に、西国の御料所、そして目録を出されたことについて厳重に申し付けられるなら神妙である、とのこと、天皇のご命令はこのようであります。

この決勝綸旨を勅使として信長へ持参したのは禁裏御倉職の立入宗継

立入宗継道家尾張守の妻達が共に磯谷新右衛門尉久次の娘達だった。磯谷久次は近江志賀郡山中の領主。息子の重勝の妻は吉田兼右の娘。→はい、来た、吉田兼右。

吉田兼右は大儒者清原宣賢の次男。清原宣賢唯一神道の創始者吉田兼倶の三男として生まれ清原家へ養子に。兼右は吉田家へ養子に行き吉田家を継いだ。

天下布武」なる語の創出者は清原宣賢の孫の清原枝賢。

清原宣賢の娘智慶院は将軍足利義晴の側室で細川藤孝(義晴の子)の母。

宣賢の息子は吉田兼右(吉田家へ養子に)

宣賢の孫枝賢の娘伊予局(マリア)は正親町天皇後宮へ。マリアは後に細川ガラシャの受洗に関わる。

天下布武印とイエスズ会関連印の類似性

それまで存在しなかった楕円形の印も信長以後は数多く見られるように。著名な物は大友宗麟が使用した天正9年(1581年)頃のローマ字印。その形状は天下布武印と大変良く似ている。この宗麟印に良く似た印に天正八年の備慈多道留(ヴィジタドール)印がある。イエスズ会巡察師のイタリア人アレシャンドロ・ヴァリニャーノの印。彼は日本に3回滞在。その第一回が天正七年(1579年)七月から天正十年(1582年)正月にかけて。

宗麟印とヴィジタドール印はどちらも十字と「IHS」を印文としている。IHSはイエスズ会の略称。更に宗麟印はフランシスコの組み合わせ文字である「FRCO」を下段に刻して自らのキリシタン信仰を強く示している。

信長の義昭供奉は背後に上杉謙信武田信玄が控えて居ることを考えても危険な賭けだった。それを可能にしたのは信長だけが南欧勢力から白羽の矢を立てられそれに応じていたからと考えれば説明がつく。

和田惟政邸に滞在していた義昭が近江野洲郡矢島へ移動後還俗し「義秋」と名乗り従五位下左馬頭に任命。これを斡旋したのは吉田兼右。

当時の朝廷内の実力者山科言継は「兼右が伝奏を通さずに隠密に取り図った。(覚慶)は元服前でもあり納得出来ない。義秋という名も如何なものか」と「言継卿記」で述べている。→吉田兼右さん、本能寺の変でも大活躍する。

吉田兼右は義輝、義昭、義栄に拘る事無く、次期将軍の擁立に尽力。南欧勢力との関連を考えなければならない。

今日はここまで。

家は神道の本家だけど親キリストとか興味深い。

あと清原家て重要な役割を果たしてる。

まだまだ知らない事だらけや。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書。

14時半から夕食の下ごしらえ。

16時半に長男一家が到来。

ソーセージのBBQ味ピザ、エビとポテトのピザ、枝豆、蓮根つくね、サツマイモの葉のコンソメスープ、ピーナッツサラダ。

ウォッカ梅酒ロックを呑みながらワイワイガヤガヤ美味しく頂いた。

19時半に帰って行った。

お皿は長男と嫁が洗ってくれた。

ありがたく、読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は8541。

充実した一日だった。