2024/9/29日曜日
5時15分に起床。
5時40分に畑へ。
まずは落花生の収穫。
相変わらず、土がアスファルトのように固い。
一株掘り起こしただけで汗だくに。
スコップで掘っても掘っても、株が持ち上がらない。
何とか全部掘り上げた。
そのあとは鍬で耕し。
水遣りも終え、時計を見ると8時を回っていた。
2時間半の激闘だった。
帰宅後、シャワーと洗濯。
11時からは米麹作り。
良い感じに炊きあがった。
気温が20度台後半なので今回も発酵機無しで作る事に。
12時に昨夜以来の食事。
午後は読書。
著者は「光秀が謀反を起こしたのは明智家の存続が脅かされるような事態が生じたので、謀反と言う形でそれを強引に回避しようとしたのではないか」と推察。
思い当たるのは息子の光慶の存在。足利義昭は一代限りの将軍で実子が居たにも拘らず継がせる事は出来なかった。何故なら、義昭の次の第16代将軍は足利義輝遺児(光慶)と決まっていた。それを知っていた信長は光慶の庇護者の光秀を重用。光秀の妹の「御ツマキの方(義輝側室小侍従)」を側室にし、次期将軍を取り込んでいた、とわいは推察。
将軍義昭ー信長体制から将軍光慶ー信長体制へ移行する予定だったのが、信長は将軍家康ー信長体制へと舵を切ったのが原因か。家康ー信長体制になれば明智家は蚊帳の外、お払い箱になる。
そういえば、家康は一応源氏だから征夷大将軍になる資格があるのな。
あと、1560年代に松平から徳川へ改姓願いを正親町天皇へ奏上しとる。
名前を元康から家康に変えたのも源義家を意識して、との話もあるそうだ。
どの辺りからイエスズ会が関与していたのかはわからない。
ちなみに、この著者では宣教師オルガンティーノと明智光慶は知己だった、と書かれていた。
何と、本能寺で信長が暗殺された後、安土城に居たオルガンティーノは脱出しようと琵琶湖を舟で坂本へ。
坂本城で10代の光慶に面会し、京都の南蛮寺への避難に必要な書状を貰っている。
また、著者は、光秀が信長暗殺に至った真相を光秀の娘の細川ガラシャは知っていたのでは、と述べていた。
わいは、美貌で知られる細川ガラシャも足利義輝遺児と思っている。
その美貌は美男と言われた足利義晴から来ているのでは?
義輝も美男子だったそう。
だから光慶も。
光慶はオルガンティーノにヨーロッパの王室の貴公子のよう、と評されている。
そして、細川忠興の父の藤孝は将軍足利義晴の子、とも言われている。
ちなみに藤孝も義輝の影武者を務める程に美男子な。
珠(ガラシャ)と忠興は従兄弟同士。
信長の声掛かりと言われているから信長も事情を知っていたと思われる。
話を戻す。
信長は家康を上洛させ、正親町天皇に征夷大将軍に任命して貰おうとしていた。その前に、まず、安土城へ招き饗応。その饗応役を光秀にさせた。そして、自分が上洛するまで堺見物を勧めた。信長の上洛に合わせ家康も京都に戻る予定だった。家康の征夷大将軍任命計画を知った光秀は信長暗殺を実行した、と。そうしないと、光慶の存在が宙に浮いてしまうから。
今日はここまで。
窓を開けたまま読書をしていると、異様に冷たい風が入って来てみるみる部屋の温度が下がった。
床も冷えっ冷えに。
これは、米麹にとって良くない、と思い窓を閉めると、物凄い機械音と共に上下から電子レンジ攻撃を喰らった。
あんなにヒンヤリしていた床が瞬時にアッツアツに。
堪らず扇風機を最強に。
わいの、米麹作りを失敗させたくて電磁波攻撃を寒い寒い攻撃から熱い熱い攻撃に一瞬で変える。
それ、電気代掛かって無いんか?
無駄な事すんなよ。
ちなみに、奴等による電磁波攻撃でわいの足はボロボロよ。
DSは非武装の民間人攻撃するの得意技だからな。
17時半から夕食作り。
鮭、焼き芋、ガンボスープ、ガーリックトースト、大根サラダ、ウォッカ梅酒ロック。
夕食前、寒気がする、と言っていた夫だったが、チリパウダーを効かせたアッツアツのガンボスープを5杯程食べたら汗だくになり、寒気はどこかへ行ってしまったそうだ。
それは良かった。
後片付けを済ませたら読書をする事に。
歩数計は9410。
充実した一日だった。