2024/10/10木曜日
5時に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。
6時過ぎに畑へ。
一昨日収穫目前の里芋の側に緑色の液体が広範囲に撒かれているのが気になって掘ってみた。

雨上がりで土が余りに水分を含んでいてようわからんが、一つの芋は確認出来た。

一昨日植えた苗も何とか無事。

7時に帰宅後、シャワーと洗濯。
9時20分に買い物へ。
11時に帰宅後、食材を冷蔵庫に入れていると11時半に。
そのまま食事の用意。
12時に昨夜以来の食事。
夫には焼きそばを調理。
午後は読書。
今日は加来耕三著「生存の法則 細川一族の闘い」
何せ、細川藤孝公は将軍足利義晴時代のまだ「与一郎」と呼ばれていた頃から、逃亡や逃避生活が頻回に及び仮の逃亡生活も長かったりする。
特に、将軍足利義輝暗殺後、足利義秋を戴いての流浪生活は京都より遠く、期間も長く厳しかったと思われる。
信長の協力により晴れて15代将軍就任に漕ぎ着けた時はやっと肩の荷がおりたのではないか、と推測。
その将軍職は戦で強ければ誰でも就任できた訳では無く、帝から任命される家柄は限られていた。
徳川家康も四苦八苦した1人である。
家康が新田氏の子孫だと宣言したのは1603年。関ヶ原の合戦から3年後。
源氏の足利政権を実力で屠った織田信長は出自の藤原姓を改め平氏を称している。
次代の豊臣秀吉は藤原氏の養子となって豊臣姓を帝から賜り体裁を整えた。秀吉の政権は武家政権とは認められなかった。
秀吉死後、家康は今度こそ武家政治を始めるためにも信長からの交代という立場を取って清和源氏を名乗る必要に迫られた。
この時、家康が縋ったのが吉良。吉良家は将軍足利家の一族なのである。吉良家の当主・義安に頼み家系図を見せて貰い、新田義重の子義季が上野国に住んで得川氏を名乗っていたのに便乗。
史実は家康の代から数えて八代前の松平親氏が南北合一が成った直後に三河へ足を踏み入れたのが出発点。←充分立派だとは思うが何せ希望は征夷大将軍。限られた血筋しか任せられない。
鎌倉幕府を倒す戦いに勝利した後醍醐天皇は北条一族の膨大な旧領等を天皇、皇族、公家領として配分。白拍子や蹴鞠上手の遊芸の者にまで配した。→そら、倒幕の為に戦った武士達怒るやろ。後醍醐天皇は鎌倉幕府の御家人の制度も廃した。→どんだけ武士が厭わしかったのか。だが、その武士達が命を張って戦ったおかげで建武の新政の夢が見れたんよ。
倒幕の原動力となった諸国の名もなき士豪達はせせら笑って無視。「宋学では食って行けぬ」
尊氏はこの心情を把握。鎌倉幕府=北条政権には恩賞を巡る不平不満は鬱積していたものな、自分達の利益を保護してくれていた「幕府」機構の必要性、利便性を諸国の武士達は皮肉にも失って初めて知った。
長禄・寛正の大飢饉の時も八代将軍義政(1436〜1490)は何の手立ても講じていない。巷に飢民が満ち、京の都には八万二千の死体が横たわりそれらが賀茂川の流れを堰き止め死臭が辺りを覆うとも眉一つ動かすことが無かった。それどころか、寛正の大飢饉では洛中の民が飢え死にするのを横目に新殿や庭園を造営している。→DSかよ!
帝が飢民を救済しようと将軍義政に働きかけ、義政は義視に将軍職を譲り、庶民救済をやらせようとするも、日野富子が阻止。
帝が義政に送った詩
残民 争ひて首陽ノ蕨採る
処々炉を閉じ、竹扉ヲ鎖ス
詩興吟八酸スシ、二月満城
ノ紅緑 誰が為に肥ゆる
藤孝と義輝は剣聖と呼ばれる塚原卜伝高幹と上泉伊勢守信綱に師事。
永禄八年の変で足利義輝が弑逆された際、藤孝は自領の青龍寺に戻っていて難を逃れた。変を聞き、義輝の弟で仏門にあった覚慶を三好勢の厳重な監視下から連れ出し還俗させると将軍候補者に擁立。後に足利義秋と名乗る。
将軍の権威は一部の大名を除いては天下に通用しない。流浪を重ね越前・朝倉義景→尾張・織田信長と頼る中で藤孝の心は分相応の将軍家存続へと変貌した。
幽斎は1607年、老骨に鞭打って室町幕府の有職故実を3巻の書に纏め上げた!
忠興は鎧の軽量化を研究。鉄板に牛革を鞣し交互に繋ぎ合わせる工夫により鎧の軽量化に成功。三斎流鎧と呼ばれ家康からも鎧作りの注文が入った。
また、幕命で堤防の修築をする際は自ら石切場に立って石工達に「川の石はこう切る。城の石はこう切る」と細々と指図。誤る事は無かった。親子して研究熱心で学究肌やな。
藤孝と忠興の専門性の高さに驚いたところで今日はここまで。
16時にお孫ちゃん達が来訪。
久々に会えたので一杯抱っこして、お話して遊んだ。
17時過ぎに帰って行ったあと、夕食作り。

秋刀魚と大根おろし、麻婆豆腐、蜆とネギの味噌汁、人参サラダ、焼き芋。
ウォッカ梅酒ロックと一緒に頂いた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書をしてから寝ることに。
歩数計は8325。
充実した一日だった。