arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1130日目と荒木村重

2024/10/16水曜日

4時45分に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。

6時過ぎに畑へ。

今日は午前中予定があるのでくず米を撒いたらすぐ帰路に。

6時半に帰宅後、シャワーと洗濯。

ベランダでの水遣りも済ませたら読書。

昨日から荒木村重の本を数冊読んでいる。

そのうちの一冊、岡野正昭著「家傅の石 本能寺の変 つくられた謀反人 光秀」は荒木村重についての記述が多い。

信長と本願寺の対立が深まる中、村重が本願寺へ兵糧を送ったという讒言により、信長の怒りを買った。→「讒言」て言ってる本、これで3冊目や。

1543年に種子島に鉄砲2挺が伝来。そのうちの1挺は島津義久が将軍足利義晴に献上。そして、将軍の命により管領細川晴元から近江国坂田郡国友の鉄砲鍛冶匠に渡され模造品の製作に取り掛かった。翌年1544年、鉄砲2挺が完成。大筒も製作。国友の名は全国に知られていった。

光秀は祖父武田信豊の嫡男で伯父に当たる武田義統の妻が将軍義晴の娘であるという伝を頼り、この国友で鉄砲鍛冶匠となり火術と砲術を学んだ。その後は砲術の秘術を会得するべく丹後国を訪れ弓木城主稲富直秀の門を叩いた。稲富てガラシャが細川屋敷で死んだ時、守備を放棄した人や。

光秀は弓木城で修行の傍ら直秀の義理の妹の万喜との間に子を儲けた。万喜は17歳で美濃の親戚筋(牧家・万喜は政子の父牧長正の妹で政子の叔母、養父正勝の姪にあたる)から直秀の弟に輿入れしたがその弟は間もなく病死。寡婦となり23歳になったところで光秀と懇ろになった。

直秀は砲術の射撃の心得・射撃の姿勢、照準具による発射法、火薬の調合、装薬の分量、弾道法などを光秀に伝授。鉄砲の製作は光秀に教わった。例えば、銃身の底を塞ぐ構造が解明出来ずに苦慮していれば、浜からとってきたばかりの栄螺を見せて、螺子の機能と切削技術を説明。他にも枚挙に遑が無い程の知識を光秀から得、これが、稲富流鉄砲術の基礎を築くことになった。

生まれた子供は秀子と名付けられ今年で2歳。万喜と秀子は光秀の母方の里である若狭小浜の守護武田義統の館で暮らすことになった。

光秀が足利氏ゆかりの篠神社で野宿しようとすると、そこに先客の当時20代の荒木村重が居た。光秀31歳。

父から託された荒木家の系図と由緒書によると、藤原氏秀郷流、波多野三郎義通の3代目義定の後裔、8代目氏義が丹波国天田郡荒木邑に住んだ為、荒木を称す、とある。

村重の母方は、源範頼を始祖とする能登国吉見の一族、となっていた。同族の荒木義村に嫁し摂津に移住、池田城池田勝正に仕える事となる。

村重は二十歳の時口論から刃傷沙汰に及び相手に深手を負わせ所払いになり故郷摂津を出ることに。

1554年2月、村重は母の先祖を探訪する為に能登に向けて出発。まずは紀伊国西国33ヶ所、青岸渡寺紀伊三井寺粉河寺を参拝し道中の無事を祈願。その後、奈良・京都・近江・尾張・美濃の世情を備に見た村重は織田・徳川・北畠・今川・六角・浅井・武田・上杉と戦国武将は百花繚乱。誰が天下を取ってもおかしくない、とした。

飛騨川の上流、下呂

高山を通り富山から目的の能登七尾に着いたのは師走の初めだった。七尾町内の長命寺に高祖父の墓があると聞き探した。寺を訪ねると住職は高齢で臥せっているとのこと。お世話をしている娘の家に厄介になることに。

娘の父は藤崎氏胤と良い廻船業をしていた。藤崎家は桓武天皇十代孫岩城則道の時に磐城郡一帯を領し、その曾孫成衡が源義家の妹を娶り源氏との縁を繋いだ。9代孫の隆重が相馬郡の本領藤橋邑の名を取り藤橋胤衡と名乗ったことから藤橋初代。氏胤と兄蔦胤はその曾孫。

氏胤が村重に難攻不落の七尾城をどう攻略するか尋ねると、村重は、謙信公はもう答えを出している。「極意は何もあらず、前髪を掴んで離さぬことだ」と言われた。

村重は「国外の禁書に前髪はエゲレスの言葉で『ロック』と言い、錠前も意味すると書かれてござる。謙信公はこれをご存知で敵に勝つには前髪、すなわち錠前を掴めと解かれた」

村重は、村重の母と同じ能登の前守護吉見家の末裔と言い、吉見家の由緒を伝え、能登で衰退した吉見一族が石見国で石見吉見家として存続していることを教えてくれた。上杉謙信能登を制圧する為に探し求めていた能登吉見家が能登を統一するまでの戦略や滅亡に至った回顧録といった天下統一の手掛かりとなる膨大な軍事資料の一切を村重に託した。

村重は氏胤娘の八重との間に2人の子を儲けた。その子達は七尾に置き、1557年に七尾を発ち石見へ向かった。村重23歳。石見正頼は毛利氏の家臣となっていた。郡山城にも出向き毛利元就とも語り合う機会を持った。

1558年、長宗我部氏が束ねる四国も周り丹波福知山の親戚を尋ねると父から手紙が。城主の勘気も解けたので摂津に戻れ、と。その途中篠神社で出会ったのが明智光秀だった。

光秀31歳、村重24歳。

荒木村重の妻子・一族郎党が処刑される2週間前の安土城での信長、光秀、秀吉による宴会に於いて光秀により提案が成された。

光秀の示した素案には、嘗て光秀と丹波遷都を夢見た同盟者、村重・前久・正勝と論議を交わして作った『丹波諸法度』には天皇を中心とした国家運営が33か条の政令として記されていた。

そして、歴代将軍一覧の末尾には『丹波幕府初代』として荒木村重の名が記載されていた。

が、信長に提出された素案には末尾の将軍の名を『近江幕府・初代織田信長』と書き改められていた。

清涼殿東庭での火祭り(左義長)は信長の威光を天下に響き渡らせた。が、この火祭りは元々『丹波幕府初代将軍・荒木村重』誕生のお膳立てにと、同盟者が集まり企画していたもの。

昨年4月、光秀が前久に依頼して天皇の斡旋により信長と本願寺が和睦させてから信長は光秀に意思を伝えそれを光秀から前久を通じて天皇に奏上するという手順を無視して直接天皇に話を持ち掛けて決めるように成った。そして、光秀は信長から馬揃えを天皇の前でやる事になったと言い出した。驚いたのは近衛前久。「信長は朝廷の仕来りをご存知無いらしい。」「光秀殿、公家達は暦をも信長が自由に操りかねないと不信の念を抱いている」

丹波幕府初代将軍になる筈だった荒木村重は信長が近江幕府初代将軍になる事で邪魔になった、と。

これ、光秀の一存で変更になったとは思えない。

黒幕は誰なんだろうね。

やはり、荒木村重は嵌められたのな。

歴史はさ、勝者の都合で書き換えられるんよ。

荒木村重は謀反なんてしてない、て事。

荒木村重の出自が由緒ありすぎて素晴らしすぎて困った人が居たのだろうね。

今日はここまで。

 

8時に米麹の品温をチェック。

33度まで上昇。

麹蓋に移動させた。

 

8時45分に孫達と近くの幼稚園の幼児クラスへ。

嫁が時間を間違えた為、近くの公園で30分程一緒に遊んだ。

幼児クラスは40分で終了。

そのあとはうちの近くの公園でまったりと遊んだ。

コスモス畑は百花繚乱だった。

12時に孫達とバイバイ。

帰宅後、昨夜以来の食事。

夫にはけんちんうどんを用意した。

 

午後は読書。

16時半から夕食作り。

鶏肉の塩麹漬け焼き、里芋とイカの煮物、人参白菜もやしサラダ、昼のけんちん汁の残り、ウォッカ梅酒ロック。

夫は孫達の所へ行きまだ帰って来ない(笑)

帰ってきたら一緒に食べる事に。

 

歩数計は9285。

充実した一日だった。