arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1100日目と畑と本能寺前夜

2024/9/16月曜日

5時に起床。

5時40分に畑へ。

水遣りを済ませたら6時半に帰宅。

シャワーを浴び洗濯をしたら、ベランダで水遣り。

8時から読書。

昨日から岩室忍著「本能寺前夜 上」を読み始めた。

史実的には将軍足利義輝暗殺事件の話から始まる。

まず、最初に気になったのは「異国の神に関しての奏上」

勧修寺尹豊「異国の神の布教などと三好も何を考えているのか?」

正親町天皇「許すわけにはいかない」

三好が言い出した事らしい。

勿論、帝は許さなかった。

8/5に信長は250騎を率いて岐阜城を出発。京の松永・三好と通じている南近江の六角義賢は湖東の道を塞いで義昭と信長が京にでられないようにしている。

信長は和田惟政観音寺城に派遣。六角義賢・義治親子に上洛軍を通すよう交渉したものの拒否された。信長は一旦岐阜に引き揚げ9/7に織田軍五万と徳川軍で岐阜を出立。北近江で浅井長政軍が合流。6万で進軍。

和田山城は稲葉良通氏家直元ら美濃軍。

観音寺城柴田勝家と森三左衛門。

箕作城は信長、丹羽、滝川、木下。

徳川と浅井は後詰め。

義昭と光秀は美濃。

秀吉軍2300が箕作城に攻撃、で開戦。箕作城は山城の堅城で攻め損なった。秀吉軍師の竹中半兵衛の進言で夜襲。これが成功し一晩で落城。

観音寺城和田山城に伝わり六角義賢と義治は逃亡。9/14, 観音寺城が炎上し落城すると六角の敗北が京に伝わった。

京が戦禍に見舞われるのでは?と公卿達は大切な日記や歌集、太刀や絵画、陶器などを御所へ運び入れた。

正親町天皇は左中弁甘露寺経元を通じて信長に綸旨を出した。「京と禁裏が戦禍に見舞われないように」

将軍義輝暗殺に加担した公卿達は逃亡。暗殺犯松永久秀と親しかった関白近衛前久は摂津の石山本願寺へ逃亡。

中納言勧修寺晴右は蟄居。参議高倉永相・永孝親子は摂津へ、参議水無瀬親氏は三好三人衆の領地の阿波へ逃亡。

9/25に信長の6万の大軍は大津まで来た。ここから10kmで京に入る。これを聞いた大和に居た三好軍は逃亡を開始。9/27に信長と義昭は三井寺で合流。織田軍は混乱を避け洛外東福寺に入った。京に居た三好、松永軍はとっくに逃げ去っている。

京を良く知る細川藤孝軍が禁裏の警備の為御所の各門に配置された。織田軍はすぐ三好、松永の追悼に動いた。

29日、勝龍寺城岩成友通が降伏。30日に芥川山城の細川昭元三好長逸が城を放棄して逃亡。この日、摂津越水城では将軍義栄が病死。

10/2, 摂津越水城の篠原長房が阿波に逃亡。松永久秀と三好義継が信長に臣従。摂津の池田勝正も降伏。三好軍は四国へ総撤退。

永禄12年(1569年)正月五日、三好三人衆と斉藤龍興が義昭の将軍仮御所である六条本圀寺を襲撃。←懲りない面々。

本圀寺の警備は少数の近江や若狭軍と幕臣明智光秀で、寡兵。銃声が聞こえた方を見た光秀は敵を見つけ発砲。見事仕留めた。

夜が明けると細川藤孝、三好義継、伊丹親興、池田勝正荒木村重などの軍が続々と京に。岐阜からも報せを聞いた信長が単騎で岐阜城を飛び出した。が、湖東で猛吹雪に。何人もが凍死した。

信長は10騎で京へ。湖東の吹雪はいつも酷い。←湖東て吹雪になるのな。知らんかった。

信長は将軍義昭用に二条御所を建設。織田軍は軍律が厳しく悪さをする兵は皆無。京から盗賊や追剥の類は一掃された。←二条城建設現場で女性の被り物を捲って顔を見ようとした兵卒を叩き斬ったエピソードを聞いた事がある。そら、悪さ出来んわ。悪さ≒死だから。

ちなみに、室町時代の女性はこんな出で立ちな。

1569年4月、信長は朝山日乗と村井貞勝に命じて大規模な禁裏の修理改築に着手。長い間禁裏の至る所が傷んでいた。1571年まで続く大仕事となった。修理箇所は紫宸殿の屋根、常御所の屋根、内侍所の屋根、建物と建物を繋ぐ廊下、御所の各門等、その荒廃は目を覆うものがあった。更に、禁裏の大きさを南北二百五十間、東西百四十間の後世に残る大きさの原型を作り上げる。←信長、やる事がかっこええな。

お市の書状を見て朝倉・浅井から挟撃されると知った信長は4/30, 湖西の朽木街道を京へ退散。翌5/1には禁裏の修繕、改修の現場を視察。5/9に京を出立。千草峠で甲賀五十三家の杉谷善住坊に狙撃される。5/19に狙撃され、5/21に岐阜城帰城。

6/19岐阜城から出陣。6/21には浅井長政小谷城の真正面虎御前山に布陣。

6/28未明、浅井軍が野村方面に朝倉軍が三田村方面に出現。信長は横山城包囲に丹羽長秀と西美濃三人衆を残し、織田軍が浅井軍に、徳川軍が朝倉軍に対峙する構えを取った。信長は浅井軍に対し13段に分厚く構えた。夜明けに徳川軍が朝倉軍に突撃し開戦。

織田軍に浅井軍の猛将磯野員昌が姉川を越えて突進。この磯野軍が猛烈に強かった。織田軍先鋒の坂井政尚軍を蹴散らし次鋒の池田恒興軍は粉砕。秀吉軍も一捻りで撃破されあっという間に六段目まで突破された。柴田勝家軍まで踏み潰された。佐久間信盛軍までじわじわと後退。10、11段目が破られると十文字鎌槍の森可成しか居なくなり信長の本陣が丸裸になる。磯野軍が森軍に襲い掛かって行ったその時、磯野軍の横っ腹に横山城に居るはずの西美濃三人衆が突っ込んできた。

稲葉軍、氏家軍、安藤軍が磯野軍に突進。流石の磯野軍も一気に崩れた。浅井・朝倉軍が続々と小谷城へ逃げ込んだ。小谷城は2つの尾根に築かれた巨大な堅城。信長は横山城に秀吉を入れ城番にし一旦岐阜へ帰城した。

三好三人衆が復活し摂津方面で動いているとの報せに信長は8/20に岐阜を出陣。23日に入京。将軍に挨拶し25日に摂津枚方に布陣。26日から野田、福島城の三好軍と対戦。30日には将軍義昭も奉公衆や奉行衆を率いて京から出陣。幕府軍は摂津中島に布陣。三好軍に猛攻を加えた。9/12に劣勢な三好軍は和睦を申し入れてきた。が、幕府軍は拒否。その夜、石山本願寺の早鐘が鳴り始め、武装した顕如光佐が一向一揆軍を率いて信長軍に襲い掛かってきた。←マジ?僧侶が武将に!!

9/19に天皇から大坂に勅使が。天皇顕如石山本願寺武家の戦いに参戦した事を良い事だと思っていなかったため。←そらそうだ。おかしいやろ。

天下静謐の為、将軍と信長が出陣している。一揆を起こして敵対するとは不都合である。早々に戦いを止めるように、という天皇から本願寺に対する停戦命令。山科言継と柳原淳光が出発しようとすると、朝倉が坂本に侵攻。森可成が討ち取られ大津まで放火され京の近くまで迫っているとの報せが。この勅使は沙汰止みとなった。

浅井・朝倉が延暦寺僧兵や六角義賢残党や一揆軍と手を結び京へ侵攻。この一報は信長に知らされるや、将軍と軍を京へ戻す事に。浅井・朝倉を掃討する為坂本へ出陣。

慌てた浅井・朝倉軍は比叡山に逃げ込んだ。←ダサっ。

信長は比叡山に織田軍に味方するか浅井・朝倉を追い出すか迫った。比叡山は浅井・朝倉を匿うと返答。←僧侶に匿われる武士、、、とな。

11/28に将軍義昭が信長と浅井・朝倉の和睦に乗り出した。天皇も事態を重く見て12月に両者に勅使を派遣。和睦を求めた。長引いて三好軍が息を吹き返し京が戦場になっても困るのだ。特に朝倉軍は早く越前に戻らないと木ノ芽峠に雪が降り帰れなくなる。双方の人質を交換し和睦が成立。12/14織田軍は坂本から瀬田の唐橋まで退いた。一斉に浅井・朝倉軍は比叡山を下り北近江と越前へ向かった。その数日後に近江に雪が来た。

姉川の戦いで信長軍の13段構えの11段までを破った伝説の猛将磯野員昌が1571年、信長に降伏。佐和山城を明け渡した。信長は喜び湖西の高島城を与え、勝家や秀吉並みに遇した。←なのに甥の信澄を員昌の養子に入れた。実子が居るのに。

今日はここまで。

この本で、信長があくまで将軍を立て三好・松永軍と対峙した事や、御所の修繕をしたり、朝廷から官位官職を受ける事をしなかったけれど勤王だった事実を知れた事は良かった。

それまで戦ばかりで治安も最悪だった京都を正常化したのは信長。

本拠地が岐阜だから常に京都に居る事は出来なかった。信長が居ない隙に色々悪さをして京都の治安を悪くしていた奴ら、最低や。

将軍義輝に続いて将軍義昭をも弑逆しようと将軍御所を襲うとか、秩序無いやん。

仮にも帝から任命される征夷大将軍を殺すて、朝敵と違うんか?

兎に角、この室町幕府末期の無秩序状態を知れたのは良かった。

 

12時に昨夜以来の食事。

お腹が満たされたら午後も読書。

18時から夕食作り。

19時半に夕食。

 

麻婆茄子、かぼちゃサラダ、ゴーヤサラダ、玄米ご飯、味噌汁、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

 

歩数計は5976。

充実した一日だった。