2024/9/21土曜日
5時に起床。
5時半に畑へ。
ミニトマト枯れっ枯れ。


今年は4回に渡り苗を定植したけれど遂に1個も実を成さず、という前代未聞の結果に。
わいと孫とで収穫する楽しみを何が何でも阻止するその執念は何処から?
帰宅後、シャワー&洗濯。
9時半から読書。
今日からは立花京子著「信長と十字架 『天下布武』の真実を追う」
天下布武の「武」は「七徳の武」禁暴、戢兵、保大、定功、安民、和衆、豊財から。

美濃の井ノ口を「岐阜」と命名したのは宗恩沢彦。信長の師。周王朝の起点だった岐山に由来。
細川藤孝の従兄弟清原枝賢と叔父の吉田兼右、そして、結城忠正は潜在キリシタンだった。

彼らはガスパル・ビレラから受洗。
吉田兼右の次男梵舜もキリシタン。清原枝賢娘の伊予局が後に明智光秀の娘、実は足利義輝の娘玉子を受洗させる「マリア」である。
ビレラが義輝から制札を得られたのは幕府政所執事の伊勢貞孝の尽力による。
伊勢貞孝は大友宗麟からの紹介で取り持った。宗麟は天文20年(1551年)8月には豊後府内での布教を許可。イエスズ会士が育児院を建てる許可を与え、弘治3年(1557年)にはイエスズ会に府内の地所と会堂を寄進するなど保護した。

宗麟はザビエル来訪以前の天文14年(1545年)頃からポルトガル商人ジョルジュ・デ・ファリヒとの間に友好的交流を持っていた。
更に、府内に五年間滞在したディオゴ・ヴァス・デ・アラゴンというポルトガル人と親しい関係を持った。
京都に来たザビエルは小西行長の父弥九郎の案内で近江坂本を訪問。弥九郎は永禄2年にはビレラと会っていた。弥九郎(ジョウチン立佐)と了珪の娘アガタは結婚する。
永禄元年2月にポルトガル国王ドン・セバスチアンが前国王ドン・ジョアンへの宗麟書状に対する返書を出していた。
将軍義輝は永禄元年(1558年)頃には宗麟のルートからバテレンに近い立場のポルトガル商人と接触していた可能性あり。
今日はここまで。
1530年生まれの大友宗麟は早くからポルトガル人と仲良しでキリスト教を保護していたのな。
12時に昨夜以来の食事。
夫と長女にラーメンを調理。
自分は納豆と味噌汁、魚でお腹を満たした。
午後も読書。
15時に孫達が来訪。
16時から夕食作り。
17時から皆で夕食。
嫁が作ってきてくれた豚の角煮とわいが作ったポテトサラダ&千切りキャベツ、カボチャともやしの味噌汁でワイワイ食べた。
孫達は18時半に帰って行った。
このあとも読書してから寝ることに。
歩数計は4759。
充実した一日だった。