2024/9/22月曜日
5時に起床。
5時半に畑へ。
外へ出ると雨が落ちて来た。
取り敢えず、カートで運ぶ予定だった水の入ったポリタンク2つは車で運ぶ事に。
帰宅後、ベランダでの水遣り。
9時に雨が上がったので畑へ。
落花生の収穫の試し掘り。

まだ若干早かったようだ。
11時半に帰宅後シャワー。
いい汗を掻いた。
12時からパスタの仕上げ。
さつまいもの葉を利用してペペロンチーノ。
美味しかった。
午後は読書。
昨日に引き続き立花京子著「信長と十字架」
バテレンの京都追放
バテレンのガスパル・ビレラに永禄3年(1560年)京都居住の許可を与えた将軍義輝の死はイエスズ会にとって大打撃。
当時近畿周辺に勢力を持っていた三好長慶も義輝と共に制札を与えその家臣の多くがキリシタンとなっていた。
義輝死後、バテレン追放令が出るとバテレン達は庄林コスメや小西ジョウチン立佐らに護衛され京都を後に。堺へ逃亡。
バテレンと禁裏
永禄八年(1565年)7月にバテレン追放の綸旨を出した禁裏は日向(長逸)、篠原長房、下野政康がバテレンの事で了解を求めて来たが許可はしないと返事。「お湯殿の上の日記」より
禁裏がかくもバテレン入京に反対を表明していたのは竹内季治・秀勝兄弟と朝山日乗という強固な反対者が居たから。
朝山日乗は出雲朝山郷出身の僧侶。弘治元年(1555年)禁裏から上人号を授与される程に信頼されていた。信長の上洛後は禁裏修理奉行や禁裏、諸大名への使者として信長にも重用された。
更に、フロイスは公家の中でも万里小路惟房は「キリシタンの最悪の敵で甚だ強情である。惟房は惨めな死を遂げた。そして、彼の死後間もなくその長男も亡くなった」→そのあとに養子として万里小路家を継いだのは勧修寺尹豊の孫の充房でした、とさ。
今日はここまで。
勧修寺父子は根絶やしにされたな。
15時半に孫達が到来。
16時から夕食作り。

嫁が作ったロールキャベツ、春雨切り干し大根サラダ、厚揚げと鱈のカレーピカタ、サツマイモの茎のきんぴら、茹で落花生。
良く呑み良く食べた。
19時半に長男一家は帰って行った。
ブログを投稿し終えたら読書と調べ物をする事に。
歩数計は10,790。
充実した一日だった。