arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1095日目と畑と明智光秀の乱➂

2024/9/11水曜日

4時半に起床し朝食作り。

5時20分に畑へ。

6時半に帰宅後、シャワー&洗濯。

ベランダの水遣りを済ませたら、読書。

昨日に引き続き小林正信著「明智光秀の乱」

 

永禄13年(1570年)正月23日、信長は「五ヶ条の事書」を幕府の実務の代表者・明智光秀と朝廷の実務の代表者・朝山日乗を証人として義昭から信長が政務全体の委任を受けた事実を確認させる。

前年の「殿中御掟」が将軍義昭によって遵守されていない為、将軍義昭と天下人信長の役割分担について明確に規定した。

元亀三年(1572年)9月に出された「異見十七ヶ条」における義昭批判の力点は幕府政治ではなく義昭個人の政治姿勢・資質に置かれている。

これらの成文は武家の棟梁として室町殿の持つ君主権の前に殆ど効果無し。池亨一橋大学教授によると「信長の政治的正当性は将軍である義昭を補佐する立場によって確保されていたのである」

天正3年(1575年)7月、信長は三位中将信忠、三位中将信雄、四位少将家康、侍従の五位信孝、五位佐兵衛佐信張等5名を任官させるに留まった。織田政権は武家秩序の家格の序列・編成が成されていない事から最終段階に至るまで武家の棟梁を信長とする政庁としては不完全だった。

武家官位制に於いても天正十年(1582年)6月の段階では織田政権は室町幕府と比肩出来るような体制にはなっていなかった。

信長が最後まで持ち得なかった将軍(義昭)の専決事項。→①人事権②守護大名の特権の輿の使用の許可➂中世で最高の権威を有す禅宗の住持を補任する辞令である公帖の発給

義昭の出奔は、将軍の恣意的な介入により混乱しがちだった寺社・本所(荘園領主)への行政・司法を基盤とする畿内統治は安定。反面、周辺のあらゆる敵対諸大名、更に本願寺などから攻撃を受ける上で大義名分を与えてしまった。→新しい天下人に対して既存勢力が信長包囲網となって抵抗。

十年も続いたこのような状態を打開すべくいよいよ信長が足利幕府に代わる新しい政治体制に移行する事を明らかにし織田政権の人事構想の骨格化を具体化していく過程は天正十年三月の甲州征伐終了後から顕著に。

信長は天正六年(1578年)4月に右大臣・右大将を辞官。嫡子信忠を三位左近衛中将から権大納言兼右近衛大将へ昇進させる意向を示唆。平重盛源頼朝平氏と源氏の棟梁の先例を踏襲する事により以降織田家の当主が独占する事を意味する。

更に、家康を新田源氏として征夷大将軍に推挙する腹積もりだった!信長は家康が連れてきた穴山梅雪重臣酒井忠次石川数正らを筆頭に一斉に叙位任官を行う考えだった。今まで見送られて来た滝川一益柴田勝家丹羽長秀菅屋長頼堀秀政、長谷川秀一、羽柴秀吉などの重臣達にも四位乃至五位相当の然るべき地位で叙位任官させる予定だった。←家康御一行はただ物見遊山に来ていた訳では無かったんかーーー!!

信長の予定

御公儀 太政大臣 平信長

近衛大将権大納言 平信忠

関東 征夷大将軍 源家康←驚き!

関東管領 滝川一益

 

勧修寺晴豊日記によると朝廷は「太政大臣、関白、征夷大将軍か何れかに任官させる」との打診が朝廷側からあった。

そら、次期征夷大将軍候補の家康は命狙われますわ。当に決死の伊賀越え。九死に一生を得たな。

これが所謂「三職推任問題」

信長は武田氏の最期を見せつける為かわざわざ光秀や細川忠興筒井順慶中川清秀、など幕府との関係が深い畿内の武将達に加え2月に太政大臣になったばかりの近衛前久や日野、飛鳥井、烏丸、正親町などの公家衆を従軍させている。ここで何かあったのか、これを契機に信長と公家達の関係を冷却させた。←この辺の機微はわからない。誰かおせーて。

光秀も信長の政権構想に猛抗議、と「祖父物語」にある。場所は諏訪法華寺。信長が法華寺に陣を布いたのは3/19。また、家康が信長と対面したのは家康重臣松平家忠の日記「家忠日記」によると3/17。

更に「川角太閤記」は光秀がある重臣に謀叛の真意を吐露。「信濃の上の諏訪にての御折檻」と「岐阜に於いての三月三日の節句、大名高家の前にて面目失ひし次第」と語ったそうだ。

光秀が「サテモカヨウナル目出タキ事ヲハシマサス我等(私も)年来骨ヲリタル故」と述べて信長を激怒させたとしても家康を意識しての言動であると理に適う。信長が家康に認めた織田政権下での地位を「織田・徳川同盟」に基づく年来の論功によって獲得したものである事を光秀に説得しようとしたならば「我等も年来骨おりたる故」と光秀が抗弁する事はこれまで幕府衆を代表し織田政権に尽くして来た立場としては自然な言動。

天正十年5/15〜5/17の安土城での家康への饗応役は光秀。光秀の乱の17日前の出来事。

将軍による「御成」は豊臣時代、江戸時代においても極めて重要な儀礼。信長が「御成」をやっていないのは将軍に代わる存在ではなかった事。信長が茶の湯を発展させたのは御成の代わりか。 

ルイス・フロイスは次の様に記述。①信長は家康と穴山梅雪の饗応役に光秀を指名。②この準備に関し光秀と密室で相談。←何でそんな事までフロイスが知ってる?お前光秀とツーカーの仲だろ。➂信長は逆上しやすく自らの命令に反対を言われる事に耐えられない性質。④明智が言葉を返すと怒りを込め一度か二度足蹴にした。 →それにしてもフロイスは信長と光秀間のトラブルに詳しいのう。

今日はここまで。

 

 

9時半に。孫達が来訪。

10時過ぎに幼稚園の未就園児クラスへ。

11時半に帰宅後、食事作り。

12時に。昨夜以来の食事。

15時に孫達が来訪。

17時過ぎに帰って行った。

そのまま、夕食作り。

カボチャと人参のコンソメスープ、厚揚げと豚肉の四日市トンテキ風、生ハムサラダ、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら、読書と調べ物をする事に。

トランプ大統領が9.11の現場へ行く、というニュースがあった。

自分も当時、ニュースステーションで映像を見ていたので覚えている。

あれが、飛行機の突入では無く、ビル内部に爆弾を仕掛け爆破させ、ワールドトレードセンターに勤務していたイスラエル国籍の4千名は皆、お休みで、それを調べ上げたNHKの長谷川浩アナウンサーが5日後にビルから転落死した事等に憤りを覚える。

確か、子ブッシュがワールドトレードセンターに勤務の仲良しにその日は行かないよう告げた事という記事も何処かで読んだ。

酷い自作自演のテロだよ。

 

歩数計は7284。

充実した一日だった。