arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1029日目と畑

2024/7/7日曜日

4時に起床。

塩麹の材料をヨーグルトメーカーにセットしてから4時45分に畑へ。

すると、トウモロコシが多数倒れていた。

というか茎の真ん中からポキっと折れてた。

 

取り敢えず、支柱を立てて紐で結わえた。

植物の再生力に期待したい。

アシストで竹酢液を振り掛けた。

他にも枝豆が倒れていたので支柱で支えた。

持参した苗を定植したら、冬瓜用の支柱立て。

7時40分に帰路に。

 

帰宅後、シャワー&洗濯。

収穫した野菜ちゃん達を水洗い。

引き続きベランダガーデニング。

水遣りをしていると、茗荷の花芽を発見!

2個収穫した。

 

洗濯物を干し終えたら9時から最新情報をチェック。

都知事選に関して「投票してきたー」「行列してたー」「若い人が多かったー」等のツイートを多数見掛けた。

これでも20時の投票締め切りで「当確〜大勝利〜」とNHKが報道したら不正選挙やな。

うちはテレビが無いから確認しようが無い。

他の人のツイートに期待しよう。

 

11時から昼食のカレー作り。

12時に昨夜以来の食事。

自分は納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。

 

午後は読書。

昨日に引き続き「二本松少年隊のすべて」遠藤敎之著「二本松藩の藩風と教育」

今日は第3代藩主光重公の事績について。

 

光重の事績
1621年、長重51歳の時に生まれた三男。養母は織田信長娘の報恩院。

光重は敬愛と孝の人。

光重の幼年期は神を崇敬し領民を敬い家臣から敬愛され新しい城作りに励む父長重と共にあった。

光重は大ケヤキの下で長重に抱き上げられ築城進む造作を見せられながら祖父長秀の事、大名に返り咲くまでの苦労話等来し方を語り聞かされた。
恐らく養母の報恩院(信長娘)からは偉大な祖父織田信長についても話を聞かされたであろう。

意識高い系の両親の元で育った光重が凡庸であるはずがない。

光重は将軍家光に排し諱の1字の光を賜り父の諱の重をあて「光重」と改めた。

光重は15歳で家督を相続。
父の教えを堅く守り実行した。
寛永20年7月に二本松へ移封。
以後224年間移封されることなく戊辰を迎える。

この移封は会津保科の山形からの移封と同時。

保科正之は秀忠の実子であり家光の異母弟。
戊辰の役の奥州での戦いは恩義のある秀忠の血脈である会津征伐に始まるのである。 
二本松に於いても棚倉、白河と同様、新たな城作りと城下の町割りが行われた。

二本松に於いてまず光重は菩提寺である大隣寺を二本松に移築。

秀忠の位牌を安置した常宣寺も同様に移築。

藩主が領国に在る日は必ず参詣し香華を手向ける事を習いとし公儀幕府に忠勤することを家中に厳命した。

光重白河在府の故事が伝えられている。
20歳の時、領国白河に入る時、「領民が国境に老父を助けながら迎えに出ている者がいた。その路傍で居住まいを正すまもなく慌てていた。光重は馬を駐めそのものの孝を賞し少しの金員を与えた。翌年参勤の日、父を介抱しながら見送る者が前年より倍もいた(笑)これらにも賞典を倍にして与えた。これに対し老臣が領民は去年の恩賞を羨望し放蕩の輩が孝子を装い、また、他国の領民も混じっている。これらの者に賞典も与えるのは如何なものか、と言上。すると、光重はたとえ一時の偽りであってもこれを機に不孝を改める事が孝子の始めである。真偽は論せず賞を倍にして与えた」と。

父母に対する孝孫の心と領民を慈しみ敬愛する心の大切さを家中に示すものとして幕末まで語り継がれてきた。

また、光重は長寿の人であった。

光重の長男で第2代藩主長次、次男で第3代藩主長之よりも長生き。

長之の子で孫にあたる秀延が第4代藩主として1701年2月に7歳で家督を相続。

光重はその2ヶ月後に亡くなった。

81歳だった。

光重は亡くなる一月前に重臣達を集め遺訓を与えた。
「秀延はまだ幼い。これから言うことを踏まえ良く補佐するようにせよ。まず、節約倹約を自ら領民に示し、奢侈になる事を防ぐようにせよ。上は公命である公儀幕府を敬い常に尊重し忠勤に励むようにせよ。下は領民を仁の心で助け慈しむようにせよ。何事も先例を重んじこれを守るようにして時勢の損得を考えてはならない。いやしくも私心を考えに入れて物事を進めてはならない」と。

治政の根本精神を示し諭した。

 

光重は始祖長秀、父長重の偉業を孝子・孝孫の心で良く引継ぎ、秀忠を通し公儀幕府からの恩義に敬いをもって忠義を尽くし仁の心で慈しみ助け領民から敬愛された。

丹羽氏は戦国以来の武勇を持って慣らした誉れ高い武門の家柄である。

1701年3月、赤穂城浅野内匠頭長矩による江戸城松の廊下刃傷事件は二本松藩にとって身近な事件だった。

浅野内匠頭長矩は光重の実姉の孫にあたる殿様であった。

家中はこの話題で議論が沸騰。

光重はこの事件を病床で聞き大いに悔しがった。

「突いたか、斬ったか、突けば殺せたものを、と持っていた煙管を布団に突き刺した」と伝えられている。

これ以後、二本松藩の剣術の中心は小野派一刀流の突きをその神髄とした。

 

高寛にとって光重は身近だった。

光重の死後7年後に生まれその20年後に養嗣子となり家督を継いだ。

1728年6月、21歳の若き藩主である。

が、高寛は1745年5月、38歳の働き盛りで病を理由に世子高庸に家督を相続し隠居。長重、光重を見習い15歳で家督を相続させその成長を見守り育てる心根からだった。高寛は高庸より長生き。

高庸は1765年12月36歳で逝去。

高寛はその4年後62歳まで存命した。

 

戒石碑は高寛41歳の時刻ませた。戒石銘の原典は10世紀中頃、中国五代時代、後蜀の君主孟昶の作で24句96文字からなる「戒論辞」である。 


「撫養恵綏」恵み深い政治をして国民を愛し安らかにする。
「政存三異」善政を布いて幼児、虫鳥獣にまで教化を及ぼす。
「為民父母」人民の父や母の気持ちになって行う。
「莫不仁慈」その行為が常に慈しみでなければならない。

 

鳥羽・伏見の戦いは遠い所での出来事だった。
会津征討が出され奥州列藩が足並みを揃え、急を要する情勢に至った時、二本松藩のこれまで培い築いてきた精神が、時勢の損得を超え、会津を救うべし、領国・故郷を守護すべしと、一斉に顕在したのである。

それは、まず秀忠に対する恩義であり公儀幕府に対する忠勤である。

会津は秀忠の血脈であり義を立てなければならない。

先祖の功を敬い、父母を敬い孝子・孝孫を尽くさなければならない。

故郷を守り領民を慈しみ敬愛し助けなければならない。

 

そもそも白河口の小峰城は先祖が心血を注ぎ築いた城地そのものである。

慶應4年戊辰、敵の襲来が急迫していた。二本松藩の主力部隊は白河口の戦場に勇んで出陣し死力を尽くした。

23名がこの地で戦死した。

その英霊の供養碑は樹林に抱かれた長重の廟所の門前にて私淑しているように控えて建っている。

1931年5月に「二本松藩慶應戊辰役戦死之霊」と刻まれ建立された。

廟所は戊辰の役の雌雄を決する激戦となり血で染まった谷津田川の南側にある。

対岸の北側には西軍の戦死者の墓所がある。

長寿院。薩摩長州土佐大垣館林佐土原各藩の戦死者合わせて106名。

二本松城下には老人と婦女子と子供達のみが残された。

老人隊は鎧甲冑を身に付け城下の守護に立った。

藩は兵員不足を2歳サバ読み兵役に入れる「入れ年」で補った。

数え歳である。

15歳までの出陣許可は更に「入れ年」により13歳となった。

満年齢12歳の子供達も出陣。

戦場に散った。

その死から50余年の間「之を知る人は稀であり」であり、供養はおろか語られることすら無かったのである。

「むすび」
戦場に散った少年達の英霊は藩主丹羽家菩提所である大隣寺に住職らの寒行托鉢の浄財で五輪塔が建立され祀られている。

昭和7年て、1932年や。

50年を経た今も出陣の時の「父母の教えの言の葉」が耳底に響き残っていると言っていた水野氏は大正11年(1922年)68歳で亡くなった。

水野氏は英霊が藩主と同じ菩提所に祀られている事績を知る由もない。

高寛が刻ませ公儀幕府への忠義、父母へ孝子・孝孫を尽くし、領民を慈しみ敬愛しつつ培ってきた精神が国史跡指定「旧二本松藩戒石銘」となった。

福島県の知事室にこれの拓本が表装を施され掲げられている。

二本松市教育委員会は「先人の偉業ー戒石銘で精神に学ぶ」と題する冊子を配布。

これに先立ち二本松市は平成元年1989年11/14に「二本松藩戒石銘刻銘二百四十年顕彰事業記念碑」を建立。

高寛による刻銘から今年で275年が経った。

1868年戊辰役白河口の戦いからは156年。わい、56歳。

今日はここまで。

明日は星亮一著「奥羽越列藩同盟二本松藩」を読む事に。

 

17時半から夕食作り。

鮭とイカ鶏もも肉のちゃんちゃん焼き。

今日は味噌に三升漬けの素を加えて調理。

三升漬けは青唐辛子を収穫したので今日初めてヨーグルトメーカーで作ってみた。

ヨーグルトメーカーで3時間で完成。

発酵させた為か青唐辛子は全然辛く感じなかった。

大好評だった。

お皿を洗ったら営業終了。

ブログを投稿したら読書の続きをする事に。

 

歩数計は8400。

充実した一日だった。