arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1028日目と畑と二本松丹羽家

2024/7/6土曜日

4時に起床。

ベランダでの水遣りを済ませたら5時に畑へ。

 

キュウリが出来ていた。

ズッキーニやオクラ、紫蘇を収穫したら、持参した苗を定植。

最後に水遣り。

今日は木酢液入り。

 

6時半に帰路に。

帰宅後、シャワー&洗濯、朝食作り。

 

8時半から最新情報をチェック。

そして、読書。

昨日に引き続き二本松少年隊本。

今日は「二本松藩の藩風と教育 
遠藤敎之」

 

二本松城は霞ヶ城と呼ばれていた。

1868年戊辰の7/29, 火急迫ったここ二本松に敬いを持って孝に尽くし義によって奮い立ち至誠を貫いた子供達が居た。

 

大正6年(1917年)7/29, 戊辰戦死者五十回忌の法要がしめやかに執り行われた。

この席に自らも従軍。

大檀口の戦い、城下郊外の岳村、会津への母成峠、会津領養蚕村・滝沢村へと転戦。再び母成峠へ、そして米沢への逃避行、九死に一生を得た水野少年が居た。

故水野好之氏である。

子供達は自ら志願し戦場に赴き修羅場と化す中、奮戦激突し、硝煙弾雨の中、忠君愛国の為、壮烈な死を遂げ、戦場の露と消えた。

その数14名。

哀悼。

この他、48名の子供達の存在とその事績は明治の世を通し語られる事は無かった。

水野氏はこの法要を控え、亡くなった竹馬の友の英霊を弔うに胸中万感に迫るものがあった。

「我ら賊軍にあらず」
「之を知る者稀なり」
との思いを持ってその事績を書きあげた。
これを「二本松戊辰少年隊記」と名付け法要の席で参列者に配布。

 

「出陣・大檀口の戦い」

慶應4年戊辰7月、三春藩が寝返り、本宮は敗れ、29日には二本松に敵の襲来があるだろうとの情報が。
少年達に出陣が許可され26日朝、その命令が下った。
23名の少年達が木村銃太郎を隊長とし、霞ヶ城の南側で最も大事な要害である大檀口に出陣。

 

出陣にあたり母から戒めを受けた。

「出征の上は敵を討つか己が討たれるか、此の二つしかない。決して敵に後ろを見せるな、人に後れを取ってはならぬ」と何回も諭し教えられ覚悟を腹に据えた。
父や兄が白河口に出征しているので家に実戦用の刀が無く親戚に懇願し借り与えた母も居た。

まだ、背丈が小さいので腰に刀を差す事が出来ず背中に背負っての出陣。背負ったは良いものの一人では刀は抜けず柄と鞘を互いに持って抜く有り様であった。

隊長の木村銃太郎は藩命で江戸に留学。江川太郎左衛門に指導を受け西洋式砲術を修めた。

銃太郎は慶應4年、帰藩を命じられ西洋式砲術師範となった。

まだ22歳ながら少年達に猛特訓を行った。共に出陣した23名のうち16名が木村門下生だった。

門下生16名の満年齢は、13歳7名、14歳9名。

水野氏も門下生で14歳であった。

藩議が降参に決定した、と28日朝には一旦松坂御門に引き上げよとの命令が。 

軍議がまた一変し出陣、の命令が。

陣立てが完了したのは28日午後8時。

29日早暁、大檀口は霧が深く立ち込めていた。
本宮口から敵が群を成して押し寄せて来た。

幾隊も隊伍を整えて二本松街道に現れてきた。
小銃の着弾距離より遠いので大砲の位置を少し変えて隊伍を目掛けて発射。

頭上で3発爆発。

敵は散乱し左右の山林に駆け入り大砲や小銃を雨霰のように撃ちだしてきた。

敵の動作は敏活で巧みな射撃。

こちらも大砲で反撃。

見事に命中し四散する姿が認められた。

が、戦うにつれ流血し倒れる者や負傷して呻く者あり、木村隊長が倒れ友が傷つき斃れた。

止むなく大檀口から転戦。

足を負傷した者は刀を杖に潰走。

道なき山路を逃げ惑い壮健な者でも血反吐を吐き、共に戦った輩が喘ぎ苦しんで逝った。

今朝まで我が故郷、霞ヶ城城下は暁を迎えて暗くなると安らかに眠りに就く平安の地であった。

これが忽ちにして阿鼻叫喚、修羅の街と化した。

大檀口で戦死した門下生は13歳4名、14歳2名の計6名。

門下生の他の死者は2名。

 

 

大檀口の戦い以外の戦場での戦死者は6名。

62名出陣した少年隊のうち14名が戦場の露と消えた。

戒石碑
爾俸爾禄
民膏民脂
下民易虐
上天難欺
爾の俸、爾の禄は民の膏、民の脂なり、下民は虐げ易きも、上天は欺き難し
お前がお上から戴く俸禄給料は人民の汗と脂の結晶である。領民は虐げ易いけれども天を欺く事は出来ない
第5代藩主高寛が儒学者岩井田昨非に刻ませた。

藩では家塾の形であったが各師範の宅地内に藩の費用で賄う教場を21も設けていた。漢学医学習字が7校。

兵学が1校。武術13校。

これとは別に藩校「敬学館」を創設。

同一構内に漢学を学ぶ為の敬学館、習字の為の手習い所、剣・槍・柔術・居合などの武芸所、弓術の為の射的所を設け四大教場とした。

修学の年齢は10歳からの手習い所。

30歳までの漢学、算術、剣術、弓術、馬術
剣術は突きの精神の小野派一刀流

 

藩主高寛は「藩の支えの元は領民を慈しむことにある。だから天を恐れ民を敬え」と教えた。

高寛は始祖長秀の第6子で将軍秀忠近習の長紹4世の孫になる。

1728年旗本1500石丹羽家から4代藩主秀延の逝去に際し養嗣子となり秀延の妹を妻とし宗家の家督を相続した。

高寛が1728年、初めて二本松へ入部した際始祖長秀の廟所を訪ねた。

すると並み居る重臣は誰も知らず。

旧領地の越前国へ家臣を派遣し探索させた。

廟所が宗徳寺にあり位牌が總光寺に安置、が確認された。

始祖長秀は1585年に逝去。

それから144年が経過していた。

毎年4/16の命日に家臣を派遣し代拝を厳命。

幕末まで続いた。

更に、1734年3月に始祖長秀公150回忌の法要を、1736年3月には長秀の世子で初代藩主長重公の100回忌法要を大隣寺で行った。

孝子・孝孫の範を家中全てに示した。

丹羽別家から宗家の家督を継いだ事への義を立てたのである。

今日はここまで。

明日からは始祖丹羽長秀の事績から。

丹羽長秀て地味なイメージしか無かった。

が、その事績を読んで、そして、系譜を調べてその凄さに驚いた。

だって、あの織田信長に見込まれて、信長の養女を正室に迎えているし嫡子には信長の娘を娶せている。

主君の信長公と二重に姻戚関係にあるとか、もう一族同然やんけ〜。

そら、秀吉公に嫉妬されますわ。

 

12時に昨夜以来の食事。

ヤロー共にはうどんを茹でた。

 

午後も読書。

16時から夕食作り。

 

さつまいも、じゃがいも、カボチャ、ソーセージ、鶏むね味噌漬け、サバ、サラダ、味噌汁。

良く呑み良く食べた。

お皿は長男が洗ってくれた。

ありがたく、読書の続きをする事に。

 

歩数計は9692。

充実した一日だった。