2024/10/1火曜日
4時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。
5時半に畑へ。
綿花の白やピンクの花が出迎えてくれた。

今日は緑のカーテンだった場所の耕作。

7時までやった。
肥料の関係でまだ植え付け出来ないので気が向いたらまた耕す事に。
帰宅後、シャワー&洗濯。
そして、米麹の出麹。

長女は既にお弁当を詰め終わっていた。
出来上がった米麹で早速、塩麹作り。
米麹と塩とぬるま湯を混ぜてヨーグルトメーカーにセットした。
引き続き、カボチャパンケーキ作り。

3日前に作ったカボチャクッキーは孫に「固い」と言われ不評だったので、今回は確実に柔らかいパンケーキを調理。
出来立てを夫と次男が摘んでいた。
10時から読書。
昨日に引き続き穂高健一著「妻女たちの幕末 大奥の最高権力者 姉小路の実像」
この方による、阿部正弘の抜擢は素晴らしい。人を見る目がある。
それだけ、幕末における阿部正弘の存在は大きかった。
姉小路は将軍家慶の晩年の側室である「お琴の方」にも目を掛けていた。
紀州藩付家老の新宮水野家の出身。
水野忠央の妹である。
が、大奥に女中として上がるには旗本以下の身分で無ければならない。
なので、態々、旗本の家の養女となってから大奥に上がった。
その美貌と才知で瞬く間に昇進。
将軍家慶の目に止まった。
新宮水野家学問所「育英館」にはオランダ語、英語、仏語の卓越した学者が逗留。忠央が輸入した、原書を翻訳させている。お琴は「蘭学重宝記」も知っていた。

将軍家慶は「アヘン戦争を見る限り清国は猛獣に襲われ全身が噛みつかれてボロボロだ。尊敬する大国清国の無残な敗北を知り脳天に一撃を喰らい胸が潰れる思いだった」

1845年6/4にニューヨークを出発したビッドル提督は喜望峰を周り12月末に清国広東に到着。清国と望厦条約の批准書を交換し帰路に浦賀へ立ち寄った。ビッドル提督は米国大統領の親書を受理してくれたらすぐ江戸湾から去る、と申した。
が、老中首座の阿部正弘は「通信の無い国の親書は受け取れぬ。外交目的の来航ならば長崎を窓口に一本化しておる。そちらへ回れ、と浦賀奉行から通告せよ」
ここでちょいとイザコザが起きた。
ウィキでは以下のように書かれている。

が、この著書では、『ビッドル提督が乗り移ったのは川越藩の傭船。ビッドルには悪気は無かったのだろうが大砲が隠されているムシロを剥がして覗いた。川越藩士が「無礼者!断りもなく大砲に手を掛けるとは何事だ!」と咄嗟に刀を抜き頭上に振りかざした』と述べられていた。

これが原因で一触即発の雰囲気に。
老中首座の阿部正弘は「不測の事態に備えよ。但し、当方から撃ってはならぬ。それは厳に戒めて置く」更に川越藩と忍藩に藩主自ら浦賀に出向いて陣頭指揮を執るよう命じた。藩主の出陣命令は1647年のポルトガル船の長崎来航から約200年ぶりの緊急事態である。
ビッドル提督は長崎へ行く事は叶わないので大統領の国書を渡す事は諦めた。阿部正弘はこの度の来航は薪水給与令に該当はしないが野菜、果物等を提供する事を浦賀奉行所の官吏に命令。官吏達は近在の豪農、町家、浦賀最大の干鰯問屋へ出向き無償で物資を提供してもらえないか打診。「お上の頼みならば」と農漁民達は積み込み作業にも快く従事。手漕ぎの舟で戦艦の側に運び、薪五千本←、玉子三千個、小麦二俵、梨三千個、茄子二百個などが米兵に手渡された。→信じられる?こんな良い人達に毒物のワクチン打ちまくったんよ!お上は。

12時に昨夜以来の食事。
午後も読書。
途中、テニスのお友達がブロッコリーの苗を持ってきてくれた。
そして、14時半に孫達が来訪。
15時半に公園へ。
そのまま16時過ぎに自宅まで送り届けた。
帰宅後、夕食作り。

ブリカマ、焼き芋、牛蒡と蒟蒻と蓮根のきんぴら、ニラ味噌奴、サツマイモの葉のお浸し、ナッツ、味噌汁。
ウォッカ梅酒ロックと共に美味しく頂いた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書を楽しむ事に。
歩数計は12779。
充実した一日だった。