2024/10/2水曜日
4時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。
5時半に畑へ。
↓これらは悪魔くんが発芽させたもの。
わいは種を蒔いていない。


まぁ、端っこだからお咎め無しにしている。
水遣りを済ませたら6時15分には帰路に。
帰宅後、シャワーと洗濯。
ベランダガーデニングの水遣りも済ませたら7時50分から最新情報をチェック。
イスラエルがイエメンに地上侵攻したのを受け、イランがイスラエルに攻撃した、との情報が。
イスラエルはレバノンやシリアにも攻撃しやりたい放題やっとる。
大丈夫か?
10時半から読書。
昨日に引き続き、穂高健一著「妻女たちの幕末 大奥の最高権力者 姉小路の実像」➂
幼少の長野主膳の情報もあった。
幼少の長野主膳は水野忠央の父・忠啓の養子に入り13歳まで新宮の丹鶴城で育っている。長野主膳は成長して養子縁組を解くと松坂にある堀内広城の別邸に入り本居春庭に入門。志賀谷の代官・阿原忠之進の別邸を借りて国学の塾を開いた。
ペリーの来航の情報はオランダから事前に提供されていた。

1852年に新任のオランダ商館長として長崎に到着したクルティウスは「別段風説書」を持参。そこには合衆国艦隊の詳細が書かれていた。
阿部正弘、牧野忠雅、松平乗全、松平忠優、久世広周の五大老は連日協議。5人の共通認識は、疫病(天然痘)で苦しむ民に戦争への恐怖が加われば地獄だろうから、必要以上に民心を騒がせないで秘密にした上で戦争を回避しよう、という事だった。
軍事力も、金も、戦争の実績も無い。これで合衆国に勝てば奇跡だ。よって、戦争の準備はしない、目立った防衛強化もしない、避戦を最優先にする。このたびは武器の戦いではない。頭脳の戦いだ。老中5名は若手を抜擢する事に。
川路聖謨、戸田氏栄、高島流砲術家の下曽根金三郎、堀利熈、永井尚志、岩瀬忠震、大久保一翁ら秀才且つ有為な人材を登用。

ある日、将軍家慶の侍講の日、家慶は外国事情に関する講義を所望。
林復斉は「フェートン号事件」を選んだ。
1808年10月、イギリス船が偽のオランダ国旗を掲げて入港。オランダ船と思いオランダ商館員2名は艦上へ。そのままイギリス船に拉致された。その様子を見ていたカピタンは御朱印を携えて長崎奉行所・西役所へ避難。
長崎港内の唐船や唐人屋敷の中国人らも突然の出来事に危機を覚え鐘やラッパを吹き鳴らし山野へ逃亡。
長崎奉行の松平康英は「イギリス黒船は焼き討ちにする。佐賀と福岡藩兵は異人を全員召し捕れ。抵抗すれば斬り捨て御免だ」と指示。16日、イギリス船のフェートン号はオランダ商館員の一人を解放。伝令役に使った。
イギリス船は「薪と水を要求する。応じないと長崎港内の和船を焼き払うぞ」と脅迫してきた。→強盗やな。
このイギリスからの脅迫に対しオランダ・カピタンは戦争回避と人質解放を希望。松平康英は苦慮したが長崎警備が手薄なので人質の解放を優先させた。
その日の夜、松平康英は国威を辱めた責任の遺書を書いてから自害。翌17日、大村藩から八千人の援兵が到着。が、既にフェートン号は長崎港か、立ち去ったあとだった。
→逃げ足の早さも強盗級。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
14時に買い物がてら、畑用のポリタンクを運ぶ作業。
帰宅すると、15時に夫が孫をチャリに載せ帰宅。
夫はそこから発熱。
戦力外に。
16時半に孫が帰りたい、と言ったので自分がお家まで送り届けた。
自分も喉の違和感と咳があって本調子では無かった。
が、帰宅後、ウォッカ梅酒ロックをがぶ飲み。
お替りもし、レードルで8杯は呑んだかな。
それで、喉の違和感とか倦怠感がふっとんだ。
夫にも一口勧めたが、アルコールは飲みたくないと拒否られた。
自分は兎に角気分爽快に。
普通に夕食も食べた。

ブリ大根、ポテトサラダ、玄米ご飯、なめこの味噌汁、長芋納豆穂紫蘇。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら、読書の続きをする事に。
歩数計は6945。
充実した一日だった。