2024/10/4金曜日
6時45分に起床し長女のお弁当のおかず作り。
今日も終日雨模様。
畑はお休み。
というか、数日前に蛇毒を盛られてから体調が改善しない。
今日はイベルメクチンを服用しニコチンパッチを貼ってみた。
すると、大量の鼻水。
で、腹に貼っていたニコチンパッチがいちいち剥がれるので胸に移動。
すると、手首に電磁波攻撃を受けた。
それをメモしてスクショしたら攻撃が収まった。
夫の昼食の温かい蕎麦を調理してから10時に買い物へ。
自分は味覚障害と食欲不振で昨日から食べれていない。
ま、痩せる良いチャンスやな。
やる事やったら読書。
昨日に引き続き穂高健一著「妻女たちの幕末 大奥の最高権力者 姉小路の実像」
家定「伊勢は日本の財産だった。日本の防衛には何をおいても海軍を作るという信念があった」←将軍家定も阿部正弘も立派やないかー!
阿部正弘はオランダの全面協力で「長崎海軍伝習所」を設立。蒸気軍艦をオランダに発注。同時にオランダの優秀な将官を教官に。士官候補の練習生は幕臣のみならず諸藩から有能な人材を募集。近い将来には木造軍艦から鋼船軍艦に変わるだろう、と造船所、造機所、鍛冶場の建設へと進む最中である。
家定「学問に於いても同じ考え方だ。昌平黌は幕臣に限定せず諸藩の藩士にも門戸を開いた。伊勢の最も大きな功績が人材育成だろう」
「伊勢は世界の動きをよく見ておった」
伊豆下田に於いても川路聖謨と筒井正憲が日露和親条約を結んだ。家定「択捉と国後は日本領、ウルップがロシア領としその中間が国境と定められた」この経緯に関しては、東海大地震でロシア艦ディアナ号が大破し沈没。阿部正弘はロシア兵500人が帰国出来るよう外洋船を伊豆戸田で建造させた。プチャーチン提督が人道的配慮に感謝の意を含めて国境の線引に応じた。ロシア皇帝から批准書も届いた。
この年末から日米間でも通商条約の交渉が江戸で始まった。日本側の全権は目付岩瀬忠震と下田奉行の井上清直である。ハリスとの交渉は述べ15回に渡り1条ずつ丹念に論議された。裁判権はアメリカ人の犯罪に対して日本で外国人を裁きたくないと日本側が放棄。当時の江戸幕府の刑罰は重い。10両以上盗むと死罪。他人の家に忍び込んで盗みを働いた場合金額の多寡に拘らず死罪。
https://legalus.jp/column/d3aa0819-c019-442a-a390-fc5144515e5d
輸入関税は20%、食料は5%、酒は35%。比べて中国は5%。インドは2.5%。日本は高関税率だった。
ところが、1863年、長州藩の一部攘夷派が無謀にも馬関海峡を航行する民間船に砲弾を撃ち込み多大な損害を与えた。英仏米蘭の四カ国連合艦隊が報復攻撃。下関が陥落。外国軍が上陸。全権の高杉晋作が「幕府の命令だった」と詭弁をつかった。幕府は賠償として輸入関税を一律5%にさせられた。
聖地だ、攘夷戦争だ、と粋がった結果、アヘン戦争で負けた清国と同じ屈辱的な関税に。
水野忠央には京都に居る腹心の長野主膳から逐一書簡が届く。長野主膳から一橋派の悪しき陰謀の証拠を抑えた、との一報に妹を嫁がせている薬師寺元眞を呼び寄せた。嘗て将軍家定の小姓で今は幕府御徒頭。薬師寺元眞に井伊直弼の元へ行かせ一橋派の陰謀を述べた。
薬師寺は中奥と大奥で根回し。それもあって、後日、家定の号令てわ井伊直弼が大老に。
家定「通商・開国は百年の計だ。伊勢(阿部正弘)の描いた富国強兵となり世界の一流国と肩を並べるのだ。反して、百年もの間、日本を植民地にさせるのか。そこを篤とみつめよ」
吉宗の時代から歴代の将軍は飼鳥を楽しんでいる。家慶などはオランダから異国の鳥を輸入し交配を楽しみ将軍献上品と言えば山野の珍しい鳥類だった。
顔に痘痕のある家定は永年の蘭方医学禁を解除。「お玉ヶ池種痘所」の設置を裁許。慶福とその視察が予定されて。
安政5年7月、家定はロシアのプチャーチン提督との登城・将軍拝謁の受入準備で多忙。そんな7/3, 午前中まで執務していた家定が突如倒れて重態に。「ただの過労ではない。漢方医では駄目だ。蘭方の名医を入れよ」
急遽薩摩藩の戸塚静海や鍋島藩の伊東玄朴ら蘭方医が奥医師に転じて診察。「毒が回った」と玄朴が診立てた。7/6に将軍家定が35歳で薨去。一橋派が岡礫仙院を疑った。
明治に入ると一橋派に与した人物が政権の中枢に座った。家定は抹殺された。
将軍家定は各国との和親条約、長崎海軍伝習所、学問所、安政大江戸地震の市民救助、安政の通商条約、西洋医学禁の解除などその都度吟味して裁許してい。←名君やないかー!
6/19に日米修好通商条約が締結されると、勅許無しでオランダ、ロシア、イギリス、9/3のフランスと通商条約が調印された。彼らは2ヶ月半で言語が異なる難解な通商条約を5か国と締結。驚くべき能力だ。
7月に江戸でコレラが発生し大流行。この時、京の朝廷が問題行動。孝明天皇から何故か幕府を飛び越え水戸藩に勅定が出された。
ここから安政の大獄により100名以上が検挙、捕縛された。死刑は8名。有罪は70名前後。
島津家は家臣(堀次郎)に命じて芝薩摩屋敷に故意に火を放ち全焼させた。参勤交代の費用が捻出出来ないと天璋院の口利きで二万両の貸与を受けるとそれをもって千人の兵を連れて江戸にやってきた。
久光の最大の目的は国家大罪の贋金作りの企てだった。千人の武力で幕府を威嚇し鋳造の許可を奪い取った。
麻疹の死者が江戸では数万人にも及ぶ。幕府はその対策で躍起。その背中に島津久光がやりたい放題。次は琉球通宝の鋳造を申し出てきた。勘定奉行の小栗忠順が贋金作りの臭いを嗅いで頑強に拒絶。小栗は町奉行に転出させられた。
『六月十六日、鹿児島藩主島津茂久修理大夫、琉球通宝新鋳の許可を乞う。幕府、これを允しその通用を島内に限らしむ(維新史料綱要・国立国会図書館蔵)
新老中水野忠精(浜松藩主・忠邦の長男)から三年間の期限で鋳造許可を取った。そののち数日して小栗忠順は町奉行から勘定奉行に戻された。
コレラとか麻疹とかDSの奴ら病原菌撒き散らしまくりやな。
後世の歴史家はこの薩摩藩のあくどい贋金の実態を暴いた。家老小松帯刀の下で大久保利通が鋳造の責任者だった。
『貨幣密造は天下国家への大逆転だ。千年の長きに渡り不名誉になるだろう』
鋳造に携わる家臣(市来四郎)の諫言も聞き入れず大久保利通は他にも「メッキ二分金」を鋳造させた。その贋金は長崎、横浜の武器商人から倒幕に繋がる軍艦や武器の輸入代金になった。
天璋院の声ががりで借りた二万両は返済したんか?
生麦事件の賠償金も幕府に肩代わりして貰ったしなぁ。
話を文久2年8月22日に戻すと「参勤交代は隔年から3年に一度とし大名の妻子が国許に帰ることも許す」と驚愕の変更が出された。参勤交代は幕府の大名統制の最も重要な制度。17歳の将軍・家茂は久光に全く面談しておらず、これは天璋院によるもので「養母」という巨大な権力の乱用。幕府の弱体化がここから一気に進んだ。
この事を「文久の改革」だと賛美しているがむしろ、「文久のクーデター」と言って而るべし。
今日はここまで。
16時から夕食の用意。
鳥ササミの登利平風とポテトサラダと昼の残りの蕎麦。
夫はまだ熱が下がらず、自分より重症の様相を呈しているが朝から3食良く食べている。
普段は自分と同じくオートファジーで一日二食だが、病気療養中は一度に沢山食べられないからか、ちょこちょこ食べている。
自分は食欲不振なので食事はパス。
ウォッカ梅酒ロックだけ頂こうかな、と。
歩数計は6647。
充実した一日だった。