2024/7/5金曜日
4時に起床し朝食作り。
5時に畑へ。
収穫と水遣りをしたら6時半には家路に。
帰宅後、シャワー&洗濯。
7時半に夫とつくばへ出発。
草刈りに。
9時に到着後、早速草刈り。

12時まで掛かった。
帰宅途中、回転寿司屋さんで昼食。
15時に到着後、シャワー。
そして、最新情報をチェック。
次に、読書。
二本松少年隊本。
今日は岡田峰幸著「丹羽氏入封以前の二本松」
まずは畠山氏の説明から。
1346年、畠山国氏が吉良貞家と共に奥州管領に任命され二本松に赴任。
畠山国氏の父泰国は母は畠山重忠未亡人の北条時政の娘、父は足利義純と謂われている。
足利と北条と畠山の流れを汲むサラブレッドや。
ちなみに、畠山重忠は鎌倉時代の有力御家人で鵯越えの際、愛馬が怪我をしてはいけない、と馬を担いで崖を下った怪力の持ち主な。

ちなみに、関東管領畠山国氏が常駐したのは多賀城。
二本松城に本拠を置いたのは2代国氏の孫、4代満泰の時代、1404年から。1584年、時は戦国時代。10代義継の代に伊達政宗から攻められ、二本松領手前で拉致した政宗父輝宗諸共射殺される。このあと政宗は二本松城を攻撃。義継の遺児国王丸を擁し伊達軍の猛攻を跳ね返し!やがて葦名や常陸の佐竹氏を中心とした諸大名の連合軍が安達郡本宮で激突。←人取橋の合戦。人取橋の合戦に勝利した政宗は翌年春二本松城攻略へ。兵糧攻めを実施。国王丸と家臣は会津へと落ち延びた。国王丸は蘆名氏が政宗によって滅ぼされた際、常陸へ亡命を図った蘆名義広から足手纏いとされ殺された。南北朝以来の名門二本松畠山氏はここに滅んだ。
1590年、秀吉により奥州仕置が成されると二本松領は蒲生氏郷領とされた。蒲生、上杉、蒲生、加藤と領主変われど二本松は仙道の要衝として名だたる重臣が配された。
そして、加藤氏の後を受け1643年に丹羽光重が白河より移ってきた。
ここから幕末に至るまで225年間丹羽氏による二本松藩支配が続く。
畠山、蒲生、上杉、蒲生、加藤、丹羽氏、と錚々たる武士が治める二本松。
恐らく重要地点なのな。
二本松藩は幕府からの預り領支配の為、大森陣屋や川俣代官所に代官を配置。
1730年〜1742年までの僅か13年間の統治だったが、1732年と1733年の凶作の際は年貢を2割から4割減じており「丹羽様の御仁政」と称えられた。
この時の大森組代官西崎園右衛門の頌徳碑が福島県平石の陽泰寺に現存する。
安政5年(1858年)6月、二本松藩は幕府から上総国富津砲台の警衛を命じられ役料として富津近辺の31ヶ村1万1千石の預りを命じられている。藩は全く事情のわからない土地であった為、領内の名主のうち熟練した者を郡方手附の名目で派遣し支配。この地には幕府に対して丹羽家による永続的な支配を望む富津領民の嘆願書や頌徳碑(しょうとくひ)の碑文が残されている。その中で富津領民は「取る物だけ取って何ら民政に意を払わなかった前領主達と比べ、丹羽家の扱いは真の領主に出会った心地」とまで書いている。
領民が丹羽氏を称え懐恵碑を建立。
https://kazusa.jpn.org/b/archives/2633

二本松藩政で注目されるのは「赤子養育法」
現代の児童手当の先駆け。
①13歳以下の子供が3人居る場合4人目には1年に3俵を支給。
②6歳以下の子供が2人居る場合3人目に1年に米一俵を支給。
③下男下女を持つ程の者には支給しない。
藩の財政が苦しくなった1849年には
7歳以下の子供は5人目まで1両と衣服を下付した。6人目まで1両2分。3人目以上衣服、2人目以上は下付されない。赤子養育法は幕末まで継続した。
二本松藩の領地は二本松市、本宮市、大玉村、郡山市西部、川俣町の一部、後には福島市の、一部も含まれる。
この部分を読んでいて、夫の母の本家のある「日和田村」が出て来た。
自分もお墓参りで行った事がある。
二本松藩領だったのな。
今度、姑にも聞いてみようではないか。
16時半から夕食作り。

ラタトゥイユ、ズッキーニとカボチャ、人参、生ハムのレモンサラダ、ガーリックトースト、ウォッカ梅酒ロック。
余りの暑さにウォッカ梅酒ロックは3杯。
今年もこれで暑さを乗り切れるかも。
お皿を洗ったら営業終了。
読書をしていたら寝落ち。
22時過ぎに覚醒。
ブログを投稿したら寝ることに。
歩数計は11007。
充実した一日だった。