2024/10/3木曜日
3時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。
5時半に畑に行こうとしたら雨だった。
今日はお休みする事に。
8時に長女を駅まで送迎。
帰宅後、読書。
昨日に引き続き穂高健一著「妻女たちの幕末 大奥最高権力者 姉小路の実像」
浦賀奉行所は米艦から「江戸の然るべき高官を寄越せ」と求められ老中は特に優秀な福山藩の関藤藤蔭と長岡藩の川島鋭次郎を送り出した。それに先立ち老中首座阿部正弘はこう指示した可能性がある。「ペリーが希望するならば江戸城で徳川将軍が大統領親書を受け取る。ただ江戸城内には天然痘が流行。世子家定の正室、継室も続けざまに罹患し薨去。将軍家慶公も病で臥せっている。と伝えれば良い。」と。
この時から遡る事、4年前、1849年、アメリカ東インド艦隊のグリン中佐が、プレブル号で長崎に抑留されている米国捕鯨舩の漁船員達を引き取りに来た。それはオランダ情報に基づいた東インド艦隊司令官のD・ガイシンガー提督からの命令だった。
グリン中佐は香港を出港。しかし、艦船の中で天然痘が発生。強制隔離の為に香港に引き返し落ち着くまで停船。2カ月後、抑留者14名は無事に引き渡された。
ペリーは当然ながら天然痘の怖さを知っている。それ故僅か9日間で久里浜で大統領親書を手渡すとすぐさま立ち去ったと推量。
阿部正弘は祖法が禁じた「大型船建造禁止」を解禁。新任の長崎奉行水野忠徳を介しオランダ商館長クルティウスに蒸気スクリュー船7,8隻を見積もりから発注に変更。オランダには軍艦のひな型を作らせて幕府に送るよう指図した。
軍艦を購入すれば、誰が運航するのか。オランダ海軍省からエリート将官に来てもらい指導してもらう。「長崎海軍伝習所」の建設に取り掛かった。また、軍艦の故障に備えて造船所内にドックを建設した。海軍士官の養成は幕藩体制の枠を越え優秀な人材を全国から集める。正広はいずれ日本海軍を作る計画だった。
家慶の世子家定は幼い頃より毒殺の危険があった。それで、おやつを手作りしたり、外の山野草を料理して食べていた。更に、将軍家の継嗣に向かないと烙印を押させる為に態と痴呆の真似もしていた。この話を聞いた篤姫は胸が痛んだ。そして、逆境に生きてきたこの方を大切にしたいという気持ちが広がった。
家定「伊勢はわしによく相談してくれるようになり考えが共有できた」←素晴らしい関係。
1857年、老中阿部正弘が39歳の若さで死去。暗殺されたな。惜しい人を亡くした。
今日はここまで。
昼は夫のリクエストで温かい冷や麦を調理。
自分は味噌汁と納豆ご飯で済ませた。
午後も読書。
気分転換に買い物にも行った。
電磁波攻撃が激しくて睡眠不足。
昼もあくびばかりしている。
読書も捗らなかった。
何か起きてる?
17時半から夕食作り。
麻婆茄子のみ調理した。
自分はウォッカ梅酒ロックのみ。
歩数計は4300。
充実した一日だった。