2024/2/27火曜日
5時半に起床し洗濯と朝食作り。
昨日に引き続き、強風。
張り切って洗濯物を干した。
9時半にフットサル教室へ。
かなりの暴風だったが何とかフットサル場に到着。
すると、コーチから強風により今日は中止にします、と知らされた。
残念。
買い物をし、図書館で本を借りてから帰宅。
この往復だけでも相当汗を掻いた(笑)
お風呂で温まってから昼食の用意。
12時に昨夜以来の食事。
夫にはうどんを作った。
喜んで食べていた。
午後は読書。
昨日に引き続き、自分の蔵書で幕末の動乱について調べた。
すると、イギリスの外交官アーネスト・サトウが「ジャパン・タイムス」に『議会制に移行し、(兵庫を)開港しなければ英国は武力で幕府を倒す。期限を1868年1月1日とする。』という武力革命宣言を《英国策論》として発表していた事がわかった。和訳本を各藩にくまなく送付したそうだ。
確かに、「英国策論」のウィキによると1866年6月25日に新聞に掲載される、とあった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E7%AD%96%E8%AB%96
ここからの展開は激しい。
翌月の7月20日家茂死去
12月5日慶喜将軍就任。
半年後の1867年1月16日孝明天皇死去。
若干14歳で帝位に就いた明治天皇はここから岩倉具視や西郷、大久保に利用されまくる。
まず、1868年1月3日に天皇の勅令として発令された王政復古の大号令。
これは、「一部の公家と5藩に長州藩を加えた有力者が主導する新政府を樹立するものであった。」
で、上のウィキによると、その新政府のメンバーがこの人達↓
↑何を根拠にどうやって選んだんだろね。
誰かの独断と偏見?
人気投票?
この決め方に異を唱えた人は居なかったのだろうか。
この新政府メンバーの中に徳川慶喜は入っていない。
彼は、これに先立って1866年5月に開催された四候会議(徳川慶喜・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城・島津久光が出席)で大活躍。
話し合いの主導権を握りリーダーシップを遺憾なく発揮した。
この゙結果を見た大久保と西郷は話し合いでは慶喜に勝てない、と武力討伐を決定。
倒幕の゙密勅を得るべく画策。
そして、象二郎が藩主山内容堂へ進言しそれに同意した容堂は慶喜へ大政奉還建白書を提出、とウィキにあった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E4%BE%AF%E4%BC%9A%E8%AD%B0
あら、龍馬さん、これで、西郷と大久保を敵に回したのでは、、、。
今日はここまで。
16時半から夕食作り。
鮭のもろみ漬け、玄米ご飯、なめこの味噌汁、もろみ漬けチャーシューと小松菜、ごぼうと人参とエリンギの甘辛煮、サラダ、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
食後も読書を楽しむことに。
歩数計は8770。
充実した一日だった。