6時に起床し洗濯と朝食作り。
ベランダでの水やりを済ませたら一足早く年末の大掃除の開始。
ビートルズとマライア・キャリーの音楽を流しノリノリのうちに終わった。
12時半に昨夜以来の食事。
午後は読書&調べ物。
昨夜から東條英機元首相についての本、平野素邦著「戦争責任我に在り」を読み始めた。
ウィキによると前職は関東軍参謀。
え?日本軍の組織てどーなっとんの?と調べると、頂点である大元帥は天皇。
参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍)が軍令を統括、とあった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D
確かに、東條英機元首相は陸軍大臣と参謀総長を兼任していた時期もあったけれど終戦時はそれぞれ異なる人物の名前があった。
兎に角、大元帥の次の2番目以下のポジションの方々が戦犯として逮捕拘束され、東京裁判での裁決により処刑又は服役した、と。
当時、昭和天皇の悪事はバレて居なかったからやむを得ないのか。
で、本の中では東京軍事裁判の内容についても書かれている。
その中で証言に立った田中隆吉元少将の゙話も出てきた。
その証言では対立していた武藤章中将の事が取り上げられていた。
その裏を取ろうとネットで検索していると上司の永田鉄山中将が出てきた。
この方のウィキは凄い。
陸軍士官学校を首席卒業。
「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく永田のあとに永田なし。」と評される秀才だったのだそう。
こんな逸材をDSが放っておく筈もない。
享年51歳。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%94%B0%E9%89%84%E5%B1%B1
ここで「皇道派」という言葉が出てくる。
これは、大日本帝国陸軍内に存在した派閥で天皇親政の下での国家改造を目指し、対外的にはソ連との対決を志向した。
皇道派の対義語に統制派があるが、永田中将によると統制派なる派閥は無かったそうだ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E9%81%93%E6%B4%BE
恐らくDSが永田中将の存在を恐れ、分断すべく、また、軍を対ソ連に向けさせようと皇道派を作ったとGUESS。
どちらもウィキを読ませて貰った。
荒木貞夫の方に興味深い項目を発見。
日露戦争に出征した際、梅沢道治少将の軍団に次長として所属。
その軍団は「花の梅沢旅団」と称えられたそうだ。
梅沢少将が率いたのは「後備部隊」
【後備部隊とは兵役を終えた者を再度召集した後備兵が中心で、年齢的にもかなり高く、また、内地に妻子を残しているものも多く居たため、現役兵に比べて士気が低く、戦力として現役兵の部隊よりかなり劣るというのが常識であった。】
こんな部隊で1904年の沙河会戦で10月8日に襲来した兵数3倍以上のロシア軍を3時間の激闘の末、撃退。
翌日も襲ってきたロシア軍を押し留めたそうだ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%B2%A2%E9%81%93%E6%B2%BB
この梅沢旅団の次長だったからか荒木貞夫は青年将校に大人気だったそうだ。
これが、後の陸軍士官学校事件、相沢事件、二・二六事件へと続くのであった。
尚、花の梅沢旅団に関しては面白いtweetも発見。
https://twitter.com/111g0/status/1670627562605936642?s=19
今日ははからずも日本の近代史を第二次世界大戦から「逆コース」で辿って行った。
意外に歴史的経緯が分かりやすかった。
それにしても東條英機元首相のウィキに「ハルノート」の記載が無いのは気になった。
日米開戦にハルノートの存在は大きいでしょ。
表向き。
例え裏のDS会議では戦争やるやるで決まっていたとしても。
17時から夕食作り。
玄米ご飯、鶏ササミのマヨタラコソース和え、白菜と厚揚げの中華炒め、サラダ、大根の葉の炒め煮、昨日の残りの味噌汁と煮物、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら読書と調べ物をする事に。
歩数計は9442。
充実した一日だった。