2025/1/5日曜日
5時半に起床し夫のおにぎり作りと洗濯。
ついでに夕食の下ごしらえ。
ベランダガーデニングの水やりを済ませたら長ネギの種蒔き。
こんな寒い時期に種蒔くのな。
初めて知った。
8時半から読書と調べ物。
ホーエンハイムの騎士の一族はシュトゥットガルト南方プリエニゲンの丘に居城ホーエンハイム城を築城。
1420年頃、ハンス・ボムバストが当主として臨んでいたが1424年、城と付属のホーエンハイム村は人手に。
一族はエンツ河岸ファイヒンゲンの渓谷地にある皇帝直属領リエトに移住。
この時以来一族はフォン・リエトの名を以て呼ばれ、ウェルテンベルク国王の膝下を離れ皇帝直属騎士となった。
皇帝直属騎士ハンス・ボムバスト・フォン・リエトは1455年か1456年に死去。
パラケルススの祖父は、このハンス・ボムバストの第三子、ヨハネ騎士修道会管区長ゲオルク・ボムバスト・フォン・ホーエンハイムであったとされる。
トクシテスの異説ではこの騎士修道会管区長の従兄弟の一人がパラケルススの祖父であった。
パラケルススの父ウィルヘルムはホーエンハイム家の血筋でも庶子である為に母は勿論、父の名も伏せられている。
ウィルヘルムの生地や生年も定かではない。
恐らく1457年、ナゴルト近傍ロールドルフに生まれた。
その後、父方の親類のリエト城で養育され、資産の無い貴族の庶子の常としてブルジョア的職業に就くべき将来を控えていた。
騎士代々の城を出たウィルヘルムが目前にしたのは崩壊する世界の破片と化した街道と人々。
中世社会を支えていた農村経済は貨幣経済の侵入によってどす黒く汚染され輝かしい身分制は崩壊。
人々は次々に生まれ故郷から離散し始めた。
花咲ける騎士道と敬虔な祈りの時は永遠に去った。
W・E・ポイケルトは1500年前後における末期の時の相を次のように要約。
「時代は病んでいる。言い換えれば人間共存の内的構造や社会構成やこの時代の社会的秩序が病んでいる。古くからの農業的に規定され基礎づけられた世界は没落し、今や農民の仕事の凄まじい価格暴落が出来し穀物は最早鐚一文にも価せず、買い入れる商品は全て金銭を要求される。農民はこの事態に躓いて無産者と堕する。彼は金持ちの靴拭きのぼろであり、嗤うべき哀れな田舎者である。騎士もこの事態に敗れる。何故なら騎士は配下の農園から物納税として引き出すものだけに頼って生きているからだ。幸運の騎士は盗賊騎士かブルジョアとなる。そうでない騎士達は彼らの農民を引き具して農民戦争に追い込まれる。農業の状態と同様、民衆の身にも変化が起こる。即ち変わり果てた民衆は細民や下男や走り使い、鉱山、森林、河川水路の労働者、脱走兵、傭兵、放浪の学生、貧民、賎民、果ては無一文のごろつきとなるのである。」
ウィルヘルムが、のちにはテオフラストが遍歴した町々にも街道にも、解体した農業共同体から流れ出してきたこれらの寄る辺のない根無し草達が漂遊物のように無秩序に蠢いていた。
追い剥ぎ、人殺し、行商人、詐欺師、かっぱらい、乞食、淫売、癩病患者、旅芸人、犯罪者、泥棒、ありとあらゆるいかがわしい職業の人間達が街道筋に沿って流動。
束の間の飢えを満たす獲物を漁っていた。騎士ホーエンハイム最後の末裔たるウィルヘルムとテオフラストの父子は二代に亘ってこの崩壊した中世の巨大なごみ溜めに身を投じ細民と化した民衆との接触を通じ破片の形の中に隠された断片的知識を蒐集しやがて1個の完全な世界を復元しようとする。
「父は私を決して見捨てなかった」と述懐しているようにパラケルススの身辺には生涯を通じてウィルヘルムの気配が影のように付きまとった。
旅は常に父子二人連れであるかのように営まれ著作は二代の研鑽の結実であった。
再びリエト城を出た放浪医学生ウィルヘルムの足跡を追う。
14世紀末までのドイツに於けるフランス文化の圧倒的な諸影響はプラハ(1346年)とウィーン(1365年)における大学の創設と共に急速に衰えた。
教皇のアヴィニョン幽囚に伴う1378年の教会大分裂はドイツ人とフランス人とにそれぞれ異なる教皇を指示させる事に。
結果、ドイツの聖職者のパリへの遊学は禁止に。
その応急措置として14世紀末から15世紀半ばにドイツ各地に新設大学が雨後の筍のように誕生。
ハイデルベルク、ケルン、エルフルト、ライプツィッヒ、フライブルク、バーゼル、グライフスウァルト、インゴルシュタット、チュービンゲン、ウィッテンベルク。1481年にウィルヘルムが入学したのはチュービンゲン大学。
「貧しく一事に堅実に献身的」
これがリエトのウィルヘルム・ボムバストの「学習帖」に記された評価。
ウィルヘルムが大学で学んだのはまず七学芸科。
文法、修辞、論理、算術、幾何、音楽、天文の七学芸科は中世のスコラ学の基礎学習コース。
七学芸と中世医学は医学生は一度は通過すべき理論的段階。
実地は大学を出て遍歴の旅の中で学ぶより他無い。
慣習に従って若き医学生ウィルヘルムは遍歴の旅へ。
流民と巡礼の群れに立ち混じってエッツェル山道を越え悪魔の橋を渡り修道院付属の巡礼病院に職を得た。
グレッツァー家の娘とは恐らくここで知り合った。
1492年に流浪の元騎士と教会隸民の娘は華燭の式を挙げ、翌年早くも一子テオフラストを設けた。
チロル地方の伝説ではこの頭でっかちの嬰児は帝王切開で世に出た。
生涯の最初の9年間は恐らく母が彼の主たる教師。両親の家の周囲の自然、近くのアインジーデルン修道院の教会行事、父と共にした病人の訪問。
この三つが幼いパラケルススに大きく作用した。
生涯パラケルススの身についていた有機無機2つながらの自然の驚異に開かれた眼差しは父の愛しげな導きの下に目覚めたのであった。(O・ツェーケルト)
ウィルヘルムはパラケルススが生まれた1493年頃、植物学に多大な関心があったと思われる。
何故ならパラケルススの生名テオフラストはアリストテレス没後のペリパトス学派の最も重要な指導者テオフラストス(紀元前390~前288)の名にあやかったものに相違無いからである。
このレスポス生まれのアテネの哲学者は中世を通じて博物誌、とりわけ植物学の守護神と見なされていた。
愛児にこの植物学者の名をつけたウィルヘルムが森の豊沃な自然環境の中で植物、殊に薬草の採集に余念が無かったであろうことは想像に難くない。
しかし、資料によって当時のアインジーデルンを再現すると、ここはあらゆる国々からやって来た風俗も言語も区々の巡礼者達が集散する巡礼地であった。
巡礼の中には精神や肉体の不完全を奇蹟によって癒そうと思い立った病人、不具者、異常者が夥しく立ち混じっていた。
その外部からの諸影響が集中する交点の教会と教会附属巡礼病院がウィルヘルムの仕事場であった。
錬金術師の坩堝のように相異なる物がごちゃ混ぜに混ざりあった環境は幼いテオフラストに博物誌的な多彩への好みを植え付けたであろう。
O・ツェーケルトは先の引用に続けて書いている。
「小さなテオフラストが様々の国からやって来た様々の言葉を話す信者達の只中で巡礼教会の荘厳な礼拝儀式を通じて体験した出来事の数々は少なからず持続的な影響を残したであろう。早くから彼は両親の家の前を歌や祈りの文句を唱えながら行進していく多様な民族のグループの習慣を見聞したのであった。」(「パラケルスス、16世紀のヨーロッパ」より)
パラケルスス自身は「大外科学」の中でアインジーデルンについて次のように言及している。
「私の国の人間はまたいちじくや蜜酒や白パンで育てられるのでなく、チーズと牛乳と燕麦パンで育ったのだ。これで繊細な人間ができるわけはない。それにまた、子供の頃に受けたものが一生の間その人につきまとうのである。こうした作法は、繊細で、きれい好きで、とびきりお上品な連中には殆ど粗野でしかない、、、。樅の実のなかで人となった我々は頑固で物わかりが悪いのだ。」
アインジーデルンに関する言及はもう1つ。
「フィロソフィア・サガックス」の中で彼自身が目撃した1499年の大洪水の光景について描かれている。
それは「信仰においても、政治においても、国土と人々が引っくり返るという予言」であった。
↑1499年の大洪水の時、パラケルススは6歳。
その数年後には母も亡くなる。
そして、父の仕事の関係で様々な病人にも接している。
幼い頃の試練や経験が半端ない。
後に遍歴先の各地で民衆に寄り添う素地はこの時形成されたのでは、と推測。
パラケルススは診療の報酬はお金持ちへは高額を請求したけれど貧しい人からは貰わなかったそうだ。
良いお医者さんじゃん。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書と調べ物。
16時半から夕食の用意。
18時に長女がモロッコ旅行から帰宅。
19時に夫がラグビーの試合観戦から帰宅。
久しぶりに大勢で晩御飯。
マグロの刺身、チャーシュー、なます、サラダ、お弁当のおかずの残り。
ウォッカ梅酒ロックと共に頂いた。
嫁の実家の三重からは長男だけ戻って来ている。
明日のお弁当のおかずを作ってあげた。
家族団欒後、長男は帰って行った。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物の続きをする事に。
歩数計は5629。
充実した一日だった。