arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1204日目と畑とパラケルスス⑥

2024/12/29日曜日

6時に起床し塩麹の材料をヨーグルトメーカーにセット。

お節料理で結構使うので多めに。

洗濯とベランダガーデニングの水やりを済ませたら8時半に畑へ。

 

寒起こしした土は凍っていた。

ビニールトンネルの中にも氷が。

今日は10/8に植え付けした秋じゃがいもを収穫。

ついでに、1本だけ残っていた大根も引っこ抜いた。

めっちゃ短かった(笑)

秋じゃがいもに使用していたビニールトンネルは大根へ掛ける事に。

何とか発芽して欲しいからね。

一応アオムシチェックもしたが流石に一匹も居なかった。

最後に全作物に納豆菌培養液入りの水を補給。

10時に畑をあとに。

 

帰宅後、白髪染め。

染めている間、台所で夕食用のコンソメスープを調理。

シャワーで洗い流したら、ディナー用のラザニアの下ごしらえ。

午前の台所仕事が終わったら11時半から読書。

 

昨日に引き続きパラケルスス本。

今日は、まずは、K・ゴルトアンマー著柴田健策・榎木真吉訳「パラケルススー自然と啓示」

 

医師であり医学得業士の父ヴィルヘルムはシュトゥットガルトに興ったボムバステ・フォン・ホーエンハイム家というシュヴァーベン貴族の出。

1492年にアインジーデルンで開業。その地で修道院の隷民家族の娘と結婚。

この家族はアインジーデルンに定住するオクスナー家であるとする見方もある。

シュヴァーベンとスイスのアレマン人の血がパラケルススの体内を流れスイスとシュヴァーベンの民族性が彼の人格を陶治した。

 

ウィキによると、アレマン人はゲルマン人の流れ。
アレマン人は系統不詳のスエビ人と混血しシュヴァーベン人となった。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA


心情の深さ、感情の細やかさ、豊かな精神生活、献身的な自然愛、清楚で飾らない精神態度、反感を招きかねない一疋狼的性向といった特質が、揮然と一体を成しているが、これらの特質はアレマン人の中に認められる。


シュヴァーベン人と結婚した日本人女性のブログによると、シュヴァーベンは田舎で素朴なイメージなんだそう。

そして、その方言は独特。

https://ameblo.jp/erdbeer135/entry-12141064914.html

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3

青森みたいなところか。


パラケルススは少年期には修道院の附属学校に入っていたと思われる。

彼は自身の少年時代と、父という教師から引き離された辛さを思い出し、聖職者層が児童教育へ喙を容れる事を断固退け、子供を家庭から追い出して修道院の附属学校に預ける多くの親の安易さに抗議している。

この本はここまで。

このあと、自分の苦手なキリスト教の教義に関する話になってきたので読書中止。

次のパラケルスス本を読むことに。

 

大橋博司教著「パラケルススの生涯と思想」

 

テオフラストゥスは1512年にイタリアのフェラーラ大学医学部に入学。

1515年に卒業。

その前の数年間、父の元を出立した1507~1512年の5年間の消息は不明。

彼自身の筆によるとドイツ、イタリア、フランス各地の大学を遍歴したそうだ。
パラケルススが当時の諸大学に満足したとは思えない。

むしろ、幻滅したのでは。

当時の各地の遍歴する学生達の中には随分といかがわしい者が多かった。

彼らはその地方の法律の束縛を受けなかったのでやりたい放題。
パリ大学では学生達に「講堂へ恋人を同伴するのはよくない」とか「公然と(性)愛の行為に及ぶべからず」といった注意をせねばならなかった。

また、講義中に石や馬糞を投げる事が禁じられていた。
その頃、チュービンゲンに於いては二つの学派の対立があった。

一方はアリストテレスの教えを批判的に受け止めたウィリアム・オッカムの学派に属し、他方は基本的にはプラトンに近いドゥンス・スコトゥスの学派である。
テオフラストゥスが当時の習慣によって終生の忠誠を誓ったのが後者の学派であった事は後の思想の発展にも極めて意味深いものがある。
ちなみに、宗教改革派のルターやカルヴァンは前者の思想を受けていた。
テオフラストゥスがその思想の近縁性がありながら遂に宗教改革派の主義主張を理解出来なかっのも、この当初からの学派の選択が大きな要因となっていたのではなかろうか。
フェラーラは16世紀初頭のイタリア・ルネサンス文化の一大中心地。
アリストテレス学派のパドゥア大学に対抗してフェラーラ大学はプラトン学派の人文主義者達の牙城。
フェラーラ大学の誇りはニッコロ・レオニチェーノとその後継者、ジオヴァンニ・マナルディであって、形骸と化しつつあった中世医学とその医学体系を近代的な医学へと蘇生さすべく闘っていた先駆者達だった。
15,16世紀のヨーロッパ各大学での医学教育は古典古代ギリシアの知識をアラビアを介した間接的なものに過ぎなかった。
特に自然科学領域に於いては、アリストテレス哲学の権威のアヴェロエスと「医学大全」と「正典」によってヨーロッパ中世の医学界に君臨したアヴィケンナを挙げる。
13世紀の解剖学者モンディノ・デ・ルッチは学生に教える度に「アヴィケンナも言うように、、、」といつも付け加えたそうだ。
中世からルネサンスに至るまでの医家は尽くアヴィケンナを介してしかギリシア時代の医学を知る事が出来なかった。

しかも、それはヒッポクラテス医学そのものでなくガレノスを介してのものだった。
賢帝マルクス・アウレリウスの侍臣ペルガモンのガレノス(AD 129-199)は古代ギリシア医学を集大成した組織家でその動物解剖学と体液病理学説は有名。
体液説は元々ヒッポクラテスのもの。
人間は四つの体液ー血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁ーから成る。
この説はガレノスによって完成される。
これらの四つの体液が平衡状態にある時、人間は健康。

平衡が侵された時、一つの体液が他の体液より優勢となる時、多くの病気が生じる。
現代のホメオスタシス理論もヒッポクラテス、ガレノスの体液説の二十世紀版と言えなくもない。
もしも、病気の原因が「温」であれば「冷」の食餌ないし薬剤を与える。「乾」が原因であれば「湿」を加える。アヴィケンナによる多少の変化はあっても原則的にはガレノスの継承。

この時代の教授連はアヴィケンナのテクストを文字通り「朗読(フォアレーゼン)」していた。

「講義」にあたるドイツ語はVorlesungだが、これは元々朗読という意味。この実態にテオフラストゥスは失望。

彼に希望を与えたのはレオニチェーノとマナルディだった。
レオニチェーノは当時の発生したフランス病(梅毒)研究の権威。

また、フマニストとして、古典ギリシア医学、特にヒッポクラテスの原典を直接に翻訳。

その理論を純正な形で伝えようとしていた。
わけても、「䈅言(アフオリズム)」の忠実な訳があり、後にパラケルススも師の影響のもとにこの「アフォリズム」に彼自身の解釈を加える。

後年、「フランス病」についての著作が彼の代表作の一つとなった。
マナルディもフマニストの一人。

中世を通じてルネサンスに至るまで医学に影響を与えていた占星術への批判が有名。
マナルディは辰星の運行が人間の運命、疾病に影響を及ぼすという民間信仰を医学から独立させようとしていた。
テオフラストゥスがフェラーラ大学医学部を卒業し医学博士の学位を取得したのは1515年か1516年とされている。

今日はここまで。

15世紀、16世紀の研究者が紀元前400年以上前に書かれたヒッポクラテスの原典を参考にする、て凄ないか!?

ヒッポクラテスが!

興味湧いてきた。

 

12時半に昨夜以来の食事。

午後は再び夕食の下ごしらえ。

更に出来上がった西京味噌でカジキと帆立を漬け込んだ。

次に、軍艦巻きを30個。

まだ半分も作っていない状況で15時45分に夫が孫達を連れてきた。

困っていると次男が助っ人に現れ、一緒に遊んでくれた。

17時からバタバタと夕食。

イクラとコーンの軍艦巻き、スティックサラダと醪と西京味噌ディップ。

これにバターナッツのコンソメスープとラザニアをプラス。

自分は先に子守りをし、夫と嫁が食べ終わってから食べた。

お皿は嫁が洗ってくれた。

嫁と孫達は19時に帰っていった。

このあと、読書と調べ物をすることに。

 

歩数計は8021。

充実した一日だった。