arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1210日目と畑とパラケルスス⑫

2025/1/4土曜日

7時45分に覚醒。

まずは最新情報をチェック。

結構な情報量でチェックが大変だった。

9時に起床しベランダガーデニングの水やり。

10時に畑へ。

まぁ、キャベツ畝に鳥の糞落ちまくりとか緑色の液体撒かれたりとか気付いた点は色々あったけれど一番はこれ。

虫の卵?と思いきや、真冬のアブラムシだった。

可哀想に。

寒くて縮こまって動けないで居た。

調べると生育適温は15~23度。

今日は最高気温が10度。

自分が畑に行った10時時点だと5度。

わいの手、かじかんでたで。

いつ連れてこられたんか知らんけど凍死するのでは。

11時に帰宅すると長男が在宅。

昨日19時半に三重を出発。

いつもの倍の7時間も掛かって深夜2時過ぎにさいたま市に着いたそうだ。

東名高速は断続的に渋滞が続いていたそうだ。

年末年始の移動は大変や。

 

12時に昨夜以来の食事。

ついでにおやつのクッキー作り。

午後は読書。

 

昨日に引き続き大橋博司著「パラケルススの生涯と思想」

ゲーテの「ファウスト」第二部に出現する小人間(ホムンクルス)のテーマはパラケルススの著作のあちこちに散見される。

フラスコの中で人工の小人間を作ることは古い時代からの人間の夢だったのだろうか。←クローン?

ユダヤ神秘主義カバラ思想の中にはゴーレムの伝説がある。

こちらは土から作られた人間が生命を与えられる。
パラケルススの「物の性質」なる書の第1章にホムンクルスの製法が紹介されている。
メーレン地方を出発したパラケルススはウィーンへ向かい、途中プレスブルクに立ち寄り。

この市の宴席に招待された。

ここでは地元の名士達から歓待されたそうだ。

同じ年の末、彼はウィーンへ。

彼がフェラーラに学ぶ前、学んだ母校の都で知己も多い。

友人と交わり患者を診療し名声を博し手に入れた金銭を浪費。←全部、罠やな。
フェルナンド一世は初めパラケルススを好意的に迎え彼の学説と技術を賞賛。

再度に亘って彼を宴に招き彼の「タルタルス病」についての新しい著作の出版のため100グルテンを贈与すると約束。
が、国庫との間にいざこざが(笑)→キタキタキター!パラケルススもええ加減気付いてくれよ~。
国庫側は印刷の為の前払いを彼が既に浪費してしまった、と主張。

フェルナンド一世も彼を「破廉恥ないかさま師」だと決めつけて事件は終焉。

パラケルススは44歳にしてウィーンをあとに。→な?同じ手口でやってくるだろ?

「招かれざる帰郷」ーケルンテン地方でー


幼い頃、母の死後、父と共にアインジーデルンからフィラッハに移り住み同市の市医として長年人望を集めていた、もの静かな学究の人ヴィルヘルム・フォン・ホーエンハイムは1534年に死去していた。

テオフラストゥス自身は父の後を襲ってフィラッハの市医の地位を獲得したかったに相違無い。

が、医師達が反対のデモンストレーションを起こし彼が市外に退去するよう要求。→酷いね。ま、時は中世。1538年と言えば日本は戦国時代真っ只中。織田信長は4歳豊臣秀吉は1歳。徳川家康が生まれる5年前。何でもありの時代だわ。
フィラッハでの滞在を断られたあと、ケルンテン地方の主都クラーゲンフルトの近くのザンクト・ファイト・アン・デア・グラーンに落ち着いた。

ここで「ケルンテン三部作」を書き上げている。

この論文はケルンテン議会に献呈された。そして、待ちわびていた手紙が来た。
ザルツブルクの領主司祭エルンスト・フォン・ヴィッテルスバッハから同市への招きが。

 

「葬られしものには永遠の休息を」ーザルツブルクに死すー
1541年9月24日パラケルススは波乱に満ちた生涯を閉じた。

死因には諸説あり。

彼の敵は「高所から落ちて死んだ」

弟子達は「師の敵が師を崖から突き落とした」

死の3日前に公証人に口述で遺言書を書かせている。

彼の遺骨を解剖学者ゼンマーリングが1812年に詳しく調べたところ、頭蓋骨には左頭頂部から脳底にまで骨折のあとがあるという。
マーロウやゲーテパラケルススファウストの原像を見なかったとは言えない。

特にゲーテパラケルススを深く研究したと言われる。
結局のところ、パラケルススは悪魔に魂は売り渡さなかった真正のキリスト者だった。→だから迫害された。哀悼。
パラケルススはヨーロッパにおける梅毒の発生を「1480年頃」

コロンブスの大陸発見は1493年。

↑そら、迫害されますわー。

 

この著書の後半部分は「思想」に関してで、自分の苦手な宗教やキリスト教の教義とか出てくるので読むのは中止。

 

次の本、種村季弘著「パラケルススの世界」を読むことに。


チューリッヒ湖畔プェフィコンからエッツェルの山道を超えて巡礼地アインジーデルンに向かう巡礼街道は目的地から一時間手前でジール河を横断する。

大水の度に流されていた木橋は1120年、マリア・アインジーデルン・ベネディクト派修道院第11代修道院長ゲーロの手によって新たに堅牢な石造の橋に改築された。

↑尚、屋根付き。

以来、この橋は「悪魔の橋」と呼ばれている。

1493年、のちにパラケルススを自称する事になるテオフラスト・ボムバスト・フォン・ホーエンハイムは悪魔の橋の橋畔の一軒の農家で産声を上げた。

父の名はウィルヘルム・ボムバスト・フォン・ホーエンハイム

シュヴァーベンのホーエンハイム領からスイス国内を放浪して1490年アインジーデルンに定着。

そこで土着の一門の娘を娶った騎士貴族出身の医師であった。

悪魔の橋が石造に改築されて以来橋の袂には幾つかの家族が住み着いて一門を形成していた。

オクスナー家、グレッツァー家、ウェーゼナー家の名が有力な資料と共に候補に挙げられたが、1541年、パラケルススザルツブルクで客死した時、遺言執行に際し派遣されたのはウェーゼナー家の人であった。


結婚後、医師の一家はジール河右岸上流のキューエルウィスリと呼ばれる一角に移りテオフラストはここで生まれた。

キューエルウィスリはグレッツァー家の所有地だからパラケルススの母はグレッツァー家の一員だった公算が大。

彼女の身分がアインジーデルン修道院に対し隸属と納税の義務を有し死後は遺品中最も貴重な物品を所有地相続税として修道院に奉納しなければならない教会法に束縛された家族の一員であった。

大貧民みたいな罰ゲームやな。


パラケルススの墓碑名にあるアウレオルス・フィリップス・テオフラストゥス・ボムバストゥス・フォン・ホーエンハイムのうちフィリップの名は母方の希望で付けられた。

が、生前のパラケルススはこの名を絶対に使わなかった。

生前に彼をフィリップも含むフルネームで呼んだ人間は居たが、それはバーゼルに於ける彼の弟子で後に一転して論敵となったオポリヌスのような人物が嫌がらせの為に用いた悪意の所産だった。

論敵達はフィリップの名を彼が嫌がっている事を何故か知っていたのである。
教会法は隸民の子が夫婦のうち「弱い方」を継ぐべき事を定めていた。

それゆえ、彼は「教会直属の女」の息子として「アインジーデルンの我らが愛する女の崇むべき教会」の使者の手によって遺品中最も効果な銀の盃をマリア・アインジーデルン修道院に遺贈。
ボムバストゥスはラテン語で「大言壮語」「法螺吹き」を意味する。
が、ボムバスト・フォン・ホーエンハイムの名は1270年8月14日「添名をボムバストと称する戦士クンラードゥス・デ・ホーエンハイム」がファイヒンゲン/エンツ地方アウリッヒの教会の教会保護権をヘレンアルプ修道院に贈与する旨を記した文書に登場。

フォン・ホーエンハイムの一族は当時、采邑所有者、ヒルザウ並びにヘレンアルプの修道院僧、騎士団所属騎士、エスリンゲン市長などを生んでいた。

更に遡るなら830年建立になるヒルザウのベネディクト派修道院の教会基本財産寄付帳に早くもホーエンハイムの名が記載されている。

1100年の同修道院寄付帳にはエギロルフ・フォン・ホーエンハイムの名が記され、伝記作者オットー・ツェーケルトに従うなら恐らくこのエギロルフがボムバスト・フォン・ホーエンハイムの祖先に当たる。

↑これまで、何冊ものパラケルスス本を読んだが、パラケルススの出自に関してはこの著書が最も詳しく書かれていた。

また、教会の隸属民て、何の事だかよくわからなかったが、教会に属し、教会法により、教会に納税し、相続税も払い、更に、隸民の子は隸民で同様に納税の義務がある、と初めて理解した。

だから、パラケルススは母方の名前を絶対使わなかったのか。

父親は貴族の出自だけれど庶子で相続権を持たないから医師として身を立てねばならなかった。

教会の病院に勤務したものの、行政的身分は教会隸民である妻の「配偶者」であった、と。

教会法ではその子供は弱い立場の方を継ぐが、その後、父のウィルヘルムはフィラッハの市医に着任したから、母の方が弱い立場になる?

しかし、その母は父子がフィラッハへ引っ越す前、パラケルススが9歳の時に亡くなっているのだが。

ようわからん。

兎に角、パラケルススは母が教会隸民だった為、自身もそれを継ぎ、生涯に渡り教会と縁が切れなかった、と。

それは理解した。

今日はここまで。

 

今夕は簡単に常夜鍋なので撮影は省略。

このまま読書と調べ物を続行する事に。

 

歩数計は4507。

充実した一日だった。