arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1213日目と「パラケルススの世界」④

2025/1/7火曜日

5時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、次男のおにぎり、夫の昼食作り。

8時に長女を駅まで送迎。

帰宅後、おやつのリンゴの皮ケーキ作り。

10時半から最新情報をチェック。

11時半から読書と調べ物。

昨日に引き続き種村季弘著「パラケルススの世界」

 

バルカンに於けるパラケルススの足跡は詳しく判明している。

その前に1524年のフィラッハ帰郷までの足跡を駆け足で整理しておく。
1522年 クロアチア辺で年を越したパラケルススはクラーニからドラバ河渓谷を通ってペッタウ経由ケルンテンを通過。

O・ツェーケルトはこの道中に父の許に立ち寄らなかったとしているがポイケルトは逆にケルンテンの父の家に少時帰還したと考えている。

しかも、大遍歴時代を通じて数度フィラッハに戻って小休止したであろうとしている。

その証拠としてポイケルトは「コルマールの梅毒論文」(『梅毒の膿疱、麻痺、腫瘍、穿孔』十巻)にある「私はジーベンビュルゲンで失敗し私の石鹸樟脳擦剤(オボデルトツホ)は侮蔑された、、、」云々の一文を挙げている。

石鹸樟脳擦剤とはリューマチ用の特効薬でホーエンハイム家家伝の薬剤の一つ。

これを調剤する所は秘伝が手ほどきされた場所(父の家)であることが最も自然であるとポイケルトは推定。

問題の薬が使われたと覚しいジーベンビュルゲンはケルンテンから然程遠くない。

従って彼は時折フィラッハの父の家に帰って休息を取ったと考えられる。
旅は終わりに近づきケルンテンから再び南下しヴェネチアへ向かいヴェネチア戦争に従軍。

ヴェネチアからアンコナを経てイタリア南部(大ギリシャ)のタラントへ。

ここから海路でアテネデルポイロードス島、サモス、レスボス、レムノスなどのギリシャ諸国を遍歴。

クレタ島コンスタンチノープルアレキサンドリアへ渡ったのもこの時か。
1523年 帰路はマケドニアダルマチア、イストリアを経て再びヴェネチアへ。

翌1524年、フィラッハへ帰郷した。

父との邂逅も束の間、この年、ザルツブルクへ旅立った。


保留していた1520年代のドナウ沿岸地帯旅行の細目へ。
パラケルススのドナウ沿岸旅行は1521年だけでない。

晩年に近い1537年にも赴いている。
二つの水路がパラケルススとドナウ諸国との間を繋げていた。
一つは人文主義者の密やかな結社組織。
もう一つは鉱山資本家の国際組織。
ナポリアンジュー家ポーランドハンガリーを統一して以来、13,4世紀頃からハンガリアはヨーロッパの一大勢力。

16世紀初頭のハンガリア王国はマチアス・コルヴィヌス治世下のハンガリア王国を始め、ジーベンビュルゲンガリチア南部、クロアチアダルマチアを含み、イタリア、ボヘミアモラヴィアオーストリアの一部にさえ勢力を拡大。
しかし、1514年に始まる農民反乱は王国の土台を揺るがし、襲来したトルコ軍が1526年に王国中心部を占領。

パラケルススはその直前に訪れている。
10世紀にドナウ盆地を征服したマジャール遊牧民が建国したハンガリアがキリスト教を受容したのは封建制を円滑成らしめる政治的方便だった。

従ってハンガリア王国の教会は中世を通じてその時々の異端神学の絶好の隠れ家となった。
ルネッサンス期の支配者マチアス・コルヴィヌスがイタリアの異端審問法廷が投獄した医学者=人文主義者ガレオット・マルツィオを権力政治的手腕を通じて釈放させ「コルヴィーナ」の名で有名な彼の宮廷図書館の指導者に迎えた。

コルヴィヌスの妻ベアトリーチェエステはフェラーラの出。

フェラーラ大学のニッコロ・レオニツェノとマナルディのプリニウス学はフェラーラよりブタペストの土壌を背景に成立した。両者共にハンガリア王室に出入り。「ハンガリアにおけるパラケルスス」の著者ブラジウス・ブーギイはこの期間パラケルススとマナルディがハンガリアで会った可能性を仄めかしている。
1520年代には幾つかの強力な人文主義的結社がハンガリアとジーベンビュルゲン国内に結成されていた。

「ドナウ人文協会」にはパラケルススの友人ヴァディアヌスが。

ジーベンビュルゲン人文協会」には首長のヤーコブ・ピソを始めゲオルク・シャトマリ司教などエラスムスの友人が少なくなかった。

ジーベンビュルゲンの知識人達はエラスムスを典範に仰いでいた。

ハンガリアの文化風土はパラケルススの遍歴を受け入れやすかった。

今日はここまで。

パラケルススは決して孤独では無かった事がわかって良かった。

まず、ホーエンハイム家秘伝の薬を調合するにあたって度々父の家を訪れていると思われる。

そして、人文主義者と鉱山資本家の秘密結社という二つの結社に所属。

そして、他にも「ドナウ人文協会」や「ジーベンビュルゲン人文協会」等とも交流していたかも、だった。

ま、この時点ではまだ各地で嫌がらせは受けていなかったようだ。

まだ、誰がパラケルススの旅費を工面していたかは判明していない。

読み進める事に。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書と調べ物。

15時から夕食作り。

鰯すり身ハンバーグ、牛すじトマト煮込み、根菜サラダ、長芋豚巻き、ソーセージ、卵焼き、根菜のバター焼き。

嫁と子供達がまだ帰って来ない長男はうちで夕食を食べ、翌日のお弁当を作ってから帰る。 

一応、長女のお弁当の分も確保。   

足りない場合は追加で作っている。

そして、長男が夕食に参加する事により夕食のおかずの競争が激化。

危機を感じた長女は連日夕御飯に間に合うように帰って来るようになった。

夕食時は物凄い戦争状態になるので、次男の分のおかずは取り置きしている。

圧力鍋に作った牛すじトマト煮込みは完売。

戦争後、いつもは長男がお皿を洗うが今日は長女が洗ってくれた。

しばし、家族で歓談後、ありがたく読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は6140。

充実した一日だった。