arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1212日目と畑と「パラケルススの世界」③

2025/1/6月曜日

5時半に起床し長女の朝食とお弁当のおかず、夫の昼食作り。

洗濯とベランダガーデニングの水やりを済ませたら8時半に畑へ。

 

ニンニクと玉ねぎに鶏糞を追肥

玉ねぎ畝で不審な盛り土を数ヵ所で発見。

↑蟻が巣穴を作った時のような?

指でほじくったけれど何も見つからなかった。

わいは昆虫に詳しくないからネットでも検索したけれどわからなかった。

悪魔くんに虫を仕込まれた?

何せ虫のスペシャリストだから。

ま、念の為、害虫対策はする事に。

9時半に買い物へ。

10時45分に帰宅後、食材を収納していると11時半に。

そのまま食事作り。

12時に昨夜以来の食事。

午後は読書と調べ物。

 

昨日に引き続き、種村季弘著「パラケルススの世界」

 

フィラッハにおけるパラケルススの基礎教育は、まずは市立学校で始まった。

次に、ラヴァントタールの聖パウル修道院

この修道院はアインジーデルンの修道院と関係があったそうだ。
パラケルススが「大外科学」の中でも師として言及しているフォン・シュポンハイム修道院長がヨハネス・トリテミウス(トリトハイム)だとすれば、その後のパラケルススに多大な影響を与えた事は否めない。トリテミウスは当時、神学、歴史、哲学、生物学、文学においても大碩学であった。が、何より彼を有名にしたのは魔術師としてのトリテミウスである。

彼はマキシミリアン一世皇帝の為に降霊術を使って王妃マリアを召喚したそうだ。

同時にアレクサンダー大王、シーザーなどを始めとする皇帝や英雄達の姿も。

このエピソードはルターによって確認されている。
トリテミウスの魔法は他にも惑星や生誕時の影響、宇宙霊、人工の永遠に燃えるランプ、植物・動物・鉱物・人間の表徴術、魔術的秘薬と医療、予言鏡、地下埋蔵物を探知する魔法球体、魔法の環、精霊鏡、カメラ・オプスクラなどが数えられた。

↑何の事やらさっぱりわからんが悪魔くんが喜びそうな内容やな。
カメラ・オプスクラは「穏秘哲学」の著者として有名な同時代のカバリスト、ネッテスハイムのアグリッパも制作したと信じられている。
アグリッパがシュポンハイムの修道院に身を寄せてトリテミウスの教えを乞うた事は衆知の事実。
二人の間にはステノグラフィアに関する対話があったと思われる。

ステノグラフィアとは門外漢に悟られぬように秘密を結び且つ解く方法のこと。

秘密の知の伝承。

ステノグラフィアは狭義のカバラと解されていた。

トリテミウスはロイヒリンの弟子でありバジリウス・ヴァレンティヌスの錬金書の翻訳者であった。

アグリッパはトリテミウスの弟子。

そして、伝説ではパラケルススコンスタンチノープルでザロモン・トリスモジンに遭って秘伝を伝授された。
1513年、パラケルススは医学を学ぶべくイタリア・ルネッサンス医学のメッカ、フェラーラ大学へ入学。

1516年まで滞在。

O・ツェーケルトによると「彼は大いに勤勉に医学の古典作家達の研究に従事した。通常の原典購読を聴講し、規定の公開討論に参加した。〈両医学博士〉の学位獲得は恐らく1515年に〈栄誉ある解剖学教室〉において行われた。学位授与式は当時とりわけ厳粛な晴れの事件であった。博士号の取位は講義を行う資格と結び付いていた。

当時のフェラーラでは学位証書は発行されず、この慣用が採用されるに至ったのはかなり後の時代になってからのことである。」
「医学の古典作家たち」とはヒポクラテス、ガレノス、アヴィケンナ、ラーズエス、テオフィルス、ヨハンニティウスなどを指している。
フェラーラの大学には当時2人の高名な医学教授がいた。
ニッコロ・レオニツェノとジョヴァンニ・マナルディ。
レオニツェノは既に80歳台後半だったので主にマナルディに師事していたと思われる。
マナルディは古き医術の改革者。パラケルススの友人であったアウグスブルクの市医ウォルフガンク・タールハウザーなどはパラケルススをその衣鉢を継ぐ後継者に擬していた。
マナルディ以前には文献学的医学者レオニツェノの事前の浄化があった。
ニッコロ・レオニツェノはヴィツェンツァ近郊ロニーゴに生まれ青年時代を英国にまで及ぶ遍歴の旅路に過ごしたあと医学教授に。

1497年にヴェネチアで刊行された彼の「フランス病と呼ばれる伝染病としての疾病の書」は最も初期の梅毒文献だった。

レオニツェノの主要な業績は古典医書の文献学的校訂。

ガレノス、プリニウス、アヴィケンナの著作がアラビア語からの夥しい誤訳だったのを、ギリシャからもたらされた原典古写本によって正確に復元された。彼は校訂したばかりか自然(観察)との照合においても誤謬(ごびゅう)を正した。
マナルディはフェラーラ大学前、ミランド伯ジョヴァンニ・フランチェスコ・ピコの宮廷で10年間過ごしている。

ピコと言えばピコ・デラ・ミランドラ。

ミランドラ伯の甥に当たる。

マナルディはピコとも接点を持ち影響を受けた。

マナルディがピコから引き継いだ哲学はパラケルススにも影響を与えた。


大遍歴時代1516~1524年
1516年 ヴェネチアボローニャフィレンツェシエナを経過しローマの大学へ。遍歴の途上、都市部以外の農村で遭遇した人々の衛生状態は絶望的で病人、殊に怪我人や負傷者には何ら対策が取られていなかった。

大学の医学と現実とのギャップに愕然。
1517年 半島を南下。

ナポリサレルノを経てシチリア島へ。

ナポリでは梅毒が蔓延。

ドイツ人がフランス病と呼びフランス人がイタリア病と呼んだこの病は当時新大陸からナポリに上陸したと信じられていた。

パラケルススの梅毒研究はここに始まった。
サレルノヒポクラテスの都市の別名を持っていたがパラケルススは半島を南端まで下りシチリアから海路ジェノヴァへ。

そこから更にマルセイユを経てモンペリエへ。

1517年末から翌年春に掛けて地中海沿いにイベリア半島を横断する商業街道を南下。
1518年 バルセロナカルタヘナコルドバ、セビリャへ。

次にポルトガルへ行く前に軍港カルタへナから地中海対岸のアフリカに渡った。

この年、スペインはアルジェリアに進軍。パラケルススは医師として従軍。

オランを経由しバーバリ地方へ渡海。1518年にはスペインへ帰還。

セビリャからリスボンへ。

そこから北進し有名な巡礼地サンチャゴ・デ・コンポステラに向かった。

巡礼の病人が集まる巡礼地は常にテオフラストの興味を惹いた。

サラマンカ、バヤドリド、サラゴサ、スペイン国内を通過しピレネーを越えトゥールーズの大学を経てパリへ。

そこから直ちにドーバー海峡を渡る事に。
1519年 ロンドン、コーンウォールアイルランドスコットランドを経て大陸へ戻ったあとはフランドルのブリュージュ、ルーヴァン、アントワープで遊学。

ドイツやイタリアの大学で学ぶよりこの市場で学んだ方が良いと高評価。
この時期、パラケルススはオランダ軍に従軍。

オランダからフリースランドを経てハンブルクリューベックコペンハーゲンを回り1520年初頭にはストックホルムへ。
1520年 「大外科学」の中でパラケルススストックホルムデンマークの都会と記しているので彼の滞在時期はデンマークストックホルムを自国領として占領していた(1518~1521年)の事でなければならない。

彼は戦争を通じて軽視されていた外科学の重要性を確認した。
デンマーク戦争従軍において彼は国王の許可を得てウプサラ大学に遊学。

ファルンとサラの鉱山を訪れた。

更に、ストックホルムからバルト海を南下。リェバヤ、シチェチン、ケーニヒスベルクに入りダンツィヒに着いた。

そして、翌1521年にかけてロシアに旅しロシアの軍医として活動。

折から中部ロシア地方に侵攻してきたタタール人に捕らえられた。

タタール王族の末裔である伝記作者、「パラケルススの新資料」の著者バシリオ・ド・テレプネフの説によるとこの年パラケルススケーニヒスベルク若しくはダンツィヒでロシア大公の大使と知り合いその手引きでモスクワに赴いたという。
1521年 タタール人の獄舎から解放されたパラケルススの次の目的地はリトアニアプロイセンポーランド、ハンガリアを経由しつつ南下した先のバルカン半島の国々。

ジーベンビュルゲンとウァラキア
を経てドナウ下流へ。

クロアチアを通ってクラーニへ。更にイドリアの水銀鉱山へ向かう頃には年を越していた。

今日はここまで。

何度この大遍歴を読んで思う。

この壮大な遍歴旅行の費用は誰が出してるん?

パラケルススのお父さんのウィルヘルムも実地経験の為に遍歴したけれど、ドイツ、スイス、オーストリア周辺だけ。

パラケルススに至っては全ヨーロッパ、何なら北アフリカや中東にも顔出してないか?

めっちゃお金かかるやろ。

その疑問を解く為に読み進める事に。

 

17時から夕食作り。

温野菜サラダ、蜆の味噌汁、ササミ海苔巻き、蓮根肉挟み、長芋肉巻き、ソーセージ、昆布巻き、玄米ご飯、ウォッカ梅酒ロック。

皆で良く呑み良く食べた。

お皿は長男が洗ってくれた。

ありがたく、団欒した後は読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は5714。

充実した一日だった。