2025/1/3金曜日
7時半に起床し洗濯とベランダガーデニングの水やり。
9時半から読書と調べ物。
昨日に引き続き大橋博司著「パラケルススの生涯と思想」
p86「ペストと鉱夫病」南チロルの峡谷にてー
1934年、インスブルックに到着。
その際、インスブルックの南、ブレンネル峠を越えた南側の斜面にあるシュテルツィングの街にペストが発生。
ちなみに、1665年のロンドンを襲ったペストは市民10万人の命を奪った。
ここ、シュテルツィングも1512~1534年までの22年の間に8回この悪疫に襲われたと伝えられる。
ペスト発生の噂を聞いたパラケルススはシュテルツィングへ急行。
病める人々を看護し疫病を休止させる事に成功。←ヒーローやん!
が、同市はパラケルススに感謝するどころか退去する事を要求。→どした?
パラケルススはこのと時の体験を「シュテルツィング市におけるペストについての小冊子」として纏めている。
同市に献呈されるも印刷されたのは彼の死後35年を経過した1576年。
シュトラスブルクに於いてだった。
彼は次にメラン(メラノ)へ。
ここでは患者も弟子も出来て生活の面でも些か余裕が得られた。
メランを去ったあとは再びスイスへ。
1535年の夏数ヵ月をオーベルシュヴィッツのプフェッファー温泉に近いベネディクト派の修道院に客となる事が出来た。
パラケルススはこの老修道院長を診察。「胃の冷却、頭部の液流、及び結石、、、」に対する自筆の注意書きを残している。
更に修道院長の求めに応じプフェッファー温泉の効能についての小冊子を書いた。
休むことを知らないパラケルススがインタール(峡谷)の各所 にある鉱夫病に関心を持ったのはメラン滞在よりもあと。
彼は既に少年時代フィラッハでもこの病気について知っていた。
遍歴時代のスエーデンやダルマチアでも鉱山や製錬所での知見を集めていた。
鉱夫病が塵肺や金属中毒である事を見抜いて「鉱夫病」を書いたパラケルススは職業病についての研究でも先駆者だった。
この著作は1534年には完成されたと見てよい。
「最後の成功」ーボヘミアンからウィーンへー
1535年、パラケルススは彼の医学的代表作「大外科学」を完成させ、出版者を求め北に向かった。
ドナウ川に沿ったウルム市で出版者を見つけ草稿を渡すが印刷の出来映えに満足せず草稿を手にアウグスブルクへ。
ここで出版者ハインリッヒ・シュタイナーを見つけその仕事に満足。
第一巻は1536年7月28日に印刷された。パラケルススは本書をオーストリアの大公フェルナンド一世に捧げた。
興味深い事に、「大外科学」の中では手術の術式を記述するのでなく、如何に手術を避けるかに重点を置いている。
麻酔術はおろか止血や消毒法さえも十分に知られていなかった当時に於いて彼の示唆が最適だったかも。
パラケルススが患部を清潔に保つ為の注意を繰り返し述べている事は卓見。
「外科医は彼が癒すのではなく自然が癒すのだということを知らねばならない」
パラケルススは1536年に「来るべき24年間の予知」という珍しい本を出している。政治的、宗教的、哲学的諸領域のやがて来るべき事象を科学的方法によって予知せんとする、初めての試みだった。
アウグスブルクを去ってミュンヘンに向かったのは1536年11月頃。
上部オーストリアのリンツ市に近いエフェルディングに着いた彼はここの主任司祭ヨハン・フォン・ブラントの客となった。
このブラント博士は錬金術とオカルト哲学に通暁した練達の士だった。
パラケルススはブラントに「タルタルス病」についての彼の最後の著作を献呈。
この時、クローマウに住む貴人ヨハン・フォン・ライプニックからパラケルススへ診療の求めがあった。
ライプニックの住む城に招かれたパラケルススは貴人の病気が余りに進行しずていることを看て取った。
患者の内臓諸器官も上下肢も酷く冒されており、水腫、痛風、左半身麻痺が認められた。
明らかに手遅れだったが彼は看病しながら「フィロソフィア・サガクス」の著作を書き続けた。
今日はここまで。
特に「大外科学」に関する記述の「パラケルススが患部を清潔に保つ為の注意を繰り返し述べている事は卓見」に感動。
めっちゃ良いお医者さんじゃん。
あと「外科医は彼が癒すのではなく自然が癒すのだということを知らねばならない」とか、格好良い。
現代のお医者さんは手術しないとお金儲からないからね。
こんなだから、パラケルススは迫害されたのな。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書と調べ物。
17時半から夕食作り。

ピザ、酢ばす、鮭の切り込み、ソーセージ&ケール、サラダ、シチュー、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物の続きをする事に。
歩数計は1844。
充実した一日だった。