arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1207日目と畑とパラケルスス⑨

2025/1/1元旦水曜日

6時に覚醒し最新情報をサーッとチェック。

7時から洗濯とベランダガーデニングの水やり。

8時45分にカートに水の入ったポリタンクを載せ徒歩で畑へ。

まずはネギを収穫。

次に水やりをしながらアオムシチェック。

流石に何処にも居なかった。

蝶の産み付けた卵の有効期限は3~5日。

連日の寒さで蝶々は飛んでいない。

生態的に無理だわな。

水やりを終えたら撮影タイム。

 

10時に帰宅後、ホームベーカリーに餅米をセット。

11時半に餅が撞きあがった。

お雑煮の汁を温めている間に急いで丸めた。

そして、お節のお重を並べたら新年のお祝い膳の完成。

今年は夫が購入した白ワインで乾杯。

昼から良く呑み良く食べた。

昨夜に引き続き、夫は食が進まず。

ライバルの長女や嫁、孫が居ないと張合いが無いようだ。

いつもは三段重箱が二段になる位に減るのにならなかった。

その代わりにイクラと栗きんとんがお重にイン。

いい感じに収まった。

 

食後、自分は別腹のあんころ餅。

自家製のあんこと食べる搗き立てのお餅は最高だった。

13時に初詣へ。

運動不足気味なので歩いて行く事に。

最初の神社でお参りのあと、破魔矢を購入。

お炊き上げはやっていないそうなのでもう1ヵ所の神社へ。

そこではお炊き上げをやっていたので早速火の中へ入れて貰った。

そして、お参り。

甘酒と御酒のサービスもあった。

自分は甘酒を頂き、めっちゃ体が温まった。

15時に帰宅。

この途中、ビリビリ電磁波とシュワシュワ放射線攻撃を受けまくり2度もトイレへ駆け込み。

シュワシュワ放射線攻撃は強いと目の前が暗くなりその場に倒れ込む。

以前サイクリング中に喰らい危ない目に遭った。

れっきとした犯罪で軍事兵器。

武装の民間人に何さらすねん!

6kmのウォーキングで汗だくになったので総着替え。

そのあと読書と調べ物。

 

昨日に引き続き大橋博司著「パラケルススの生涯と思想」

 

p.67「フッガー財閥への挑戦」ーコルマールからニュルンベルクへー


バーゼルを逃亡したテオフラストゥスの目指したのはコルマールであった。

ここには彼のウィーン時代の学友、ローレンツ・フリース博士が居た。

ここでの数ヶ月、熱心に診察する傍ら外科医として「外科学、三巻」を執筆。

これを「ベルテネオア」と名付けた。

この著書をヴィクラムに献呈している。

また、彼はこれまでの遍歴や戦陣の至る所で梅毒を診ていた。

1528年、この経験を纏めコルマール市長ヒエロニムス・ボーネルに献呈した。
このあと、フリース博士との仲が悪化しエスリンゲンに移動。

ここは父方祖先の故郷だった。

が、ここも長くは続かず、1529年、ニュルンベルクへ。
パラケルススが1ヵ所に長期滞在出来ないのは、彼が有能・優秀過ぎて、集団ストーカー被害に遭っているからなのでは?

この犯罪は親しい者との分断を図ったりトラブルを起こさせ評判を落とさせようと様々な策略、策謀、罠を用意する。


当時、ニュルンベルクはヨーロッパの文化と商業の一中心地。

ニュルンベルクの医師達はテオフラストゥスを警戒。彼らは挑戦者を選んで論争を挑んだ。←ほらな。
が、パラケルススはもうその手には乗らなかった。そして、この市の医師達が不治の病として既に匙を投げた患者があるなら、特にそれが梅毒患者なら治して見せようと彼の側から挑戦。

梅毒は不治の病だと考えていた医師会はこれこそ彼を葬り去る絶好の機会と考えて彼の提言に応じた。←ほらな。これ、パラケルススを葬り去る事に成功すると報酬が貰えるんよ。


ニュルンベルクの城門の外には所謂「癩病院」があった。

癩と言っても当時は真性のハンセン病と区別のつかない象皮病や梅毒、その他の皮膚病患者が混合。

この病院でパラケルススは15人の収容者のうち9人を治癒せしめた‼️と言われる。

この市で彼の思想と技術に心服したのは僅か一人、マーゲンブーフ博士だけだった。
梅毒はコロンブスが発見した西インド諸島からもたらされたと「言われて」はいる。
インディアン起源の性病にはインディアン生棲地の植物が有効だと判断。

グアヤック樹が治療に使われた。
このグアヤック樹の輸入はフッガー家が独占。
パラケルススがグアヤックの樹は梅毒 に効かないと主張する本が出版されたら商業上の大損害に成りかねない。
この樹木の他に当時から一部で有効と思われていたものに水銀療法がある。
水銀は潰瘍を焼却するけれど健康な皮膚や肉をも冒し例え梅毒に有効だとしても患者は水銀中毒で死亡するものが殆どだった。
グアヤック樹か水銀か、薬草派か金属派か、の争いが梅毒治療の争点に。
パラケルススによると、どちらも正しくなかった。
薬草派は全然間違っていた。

この樹は元々梅毒には効かないのだ。←だって、恐らく梅毒は西インド諸島起源では無いから。恐らくDS悪魔がばらまいた毒。西インド諸島のインディアン達は名誉毀損で訴えていいレベル。


そして、金属派も駄目。
水銀の使い方をまるで知らない。

水銀をそのままの形で使わず、特殊な混合物として調剤すべき。

その適用量を考慮せねばならない。

これがパラケルススの主張✨
しかし、彼の著書「フランス病に関する三章」はニュルンベルク市に波乱を生せしめ、パラケルススはラーベルタールのベラッツハウゼン城に逃避せざるを得なくなる。
パラケルススは彼の唯一の知己であるマーゲンブーフ博士に手紙を書いている。
「騒ぎが鎮まったらニュルンベルクに帰る心算です。これらの人々と人間としての交わりを持ちあなたとの友情を享受したいからです。しかしこの大地は私を一所に定着するようには創らなかったのです。私の父は私を定住者として生んではくれませんでした。私がある地方を祖国としようと思っても、すぐさま私はそこを去らねばならないのです」
↑大地も父も悪くない。
悪いのは優秀なパラケルススを排除、潰そうと暗躍する勢力。


彼は驚くべき精力を以て「フランス病の起源と由来に関する八章」を書き上げた。←めっちゃ魅力的なタイトル✨日本語訳で読みたい♥️
が、何とライプチヒ大学医学部のシュトローマー博士が「テオフラストゥスなる人物は正式の医学博士でも内科医でもないのだから医学的著作をする資格は無い」と鑑定。

ニュルンベルク市当局は印刷を禁止。

梅毒に関する彼の一連の著作はその秀でた価値にも拘わらず、遂に彼の生前には出版されなかった。

現在、パラケルススの梅毒の臨床的記載や治療法を顧みる時、ライプチヒ大学が犯した過誤は医学史上の極めて大きな汚点。

↑現代でも(コロナ茶番とかで)あるあるの言論統制と、アカデミックと医療利権の収賄な。
ニュルンベルクを去った彼の関心は別の著作「パラグラーヌム」へ移行。
そして、ベラッツハウゼンをあとにしたテオフラストゥスはレーゲンスブルクに着き1530年3月29日に日食を観測。

この年の7月、彼はアムベルクの富豪バスチアン・カストナーから往診を請われ多くの医師から見離されたこの患者を治すがまたしても約束の謝礼は支払われず。←集団ストーカーの手口。何度も同じ目に遭わせて精神的ダメージを喰らわそうとする。な?悪魔くん

悪魔さんかもしれんが。


彷徨を運命づけられた医師テオフラストゥス←集団ストーカー被害者だもの。
はアルトミュール、ネルドリンゲン、メミンゲン、フォアアルルベルクを経て1530年末に東スイスのザンクト・ガレンに辿り着いた。

今日はここまで。

集団ストーカーのターゲットにロックオンされると、引っ越しても引っ越しても引っ越しても被害に遭わされるんよ。

最終的に自殺してもらうのが目的だから。

今はSNSで被害状況が拡散され情報を共有出来て、自分だけじゃない、他にも大勢被害者が居て、この犯罪のバックに国(警察)が居て、一人当たり1億円の予算が付いているとかわかってきている。

犯罪に税金使うなゴラァ💢

が、パラケルススの時代はネットとか無いから個人で対処するのは困難を極めたと推測。

そんな中、よくまあ、各地で大勢の人を診察して治療し、大量の本を書いた物だ。

自分は当初、パラケルススの余りに多い遍歴に疑問を抱いたが、本を何冊か読んでわかった。

余りに優秀で勇敢で真実を突いたが為に集団ストーカー被害に遭ってたんよ。

権力者からの命令で。

 

寝落ちしていたが、18時に療養中の次男に起こされた。

ゼリーを食べたい、と言う。

在庫は無いのでコンビニへ買いに。

帰宅後、夕食の用意。

昼とほぼ同じなので画像無し。

自分はお酒がウォッカ梅酒ロックになった。

後片付けを済ませたら営業終了。

読書と調べ物をすることに。

 

歩数計は18760。

充実した一日だった。