arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1103日目と本能寺前夜下

2024/9/19木曜日

4時半に起床し長女の朝食兼お弁当のおかず作り。

昨日大雨が降ったので畑はお休み。

洗濯とベランダガーデニングを済ませたら9時に孫達と公園へ。

30分程遊んだら買い物へ。

帰宅後、11時過ぎから読書。

昨日から岩室忍著「本能寺前夜 下」を読み始めている。

 

名門でない織田家に幕府を開ける程の2〜3百人の優秀な人材が居ない。むしろ家康の方が安祥松平9代目当主で何代も前からの家代々の譜代の家臣だらけ。その家康は信長に秘密で武田家遺臣を成瀬正一に命じて匿っていた。←大久保長安も一応その一人?で、八王子に武田遺臣が一杯居て、八王子千人同心を結成した。

近衛前久太政大臣を譲ってでも信長を天皇の臣下に留置きたいと思った。信長は武力を背景に国を統治する南蛮の国王を強く意識した。ルイス・フロイスから国王とローマ教皇の関係などを詳細に聞いている。武力を背景にした国王が爵位を授与する、というところに信長は魅力を感じた。

 

村井貞勝「官位官職に復帰するお考えはありますでしょうか。」

信長が「ない、、、」と答えれば信長暗殺が始動する事を村井貞勝は予見。これより前に信長にお毒見役を設ける事を提案していた。

この剣客の名は林崎甚助重信と言う。剣客の中では知らない者は居ない41歳の剣士。鹿島神道流の塚原卜伝の弟子で十三代将軍義輝や細川藤孝と同じ秘剣一之太刀を伝授されている。←義輝は剣豪やないかー!細川藤孝もなんだね。藤孝は文武両道や。

更に、山科言継家に出入りしていた新陰流上泉伊勢守信綱やその弟子柳生新陰流柳生石舟斎などにも比肩。

家康は中将信忠の案内で京に向かった。上洛すると家康は茶屋四郎次郎宅へ。中将は妙覚寺へ。坂本城には安土城に招かれていた細川藤孝が現れた。光秀と藤孝は光秀が義昭の臣下になる前からの知り合い。京の東山で生まれた細川藤孝とは幕臣になってから一層親しくしていた。

明智光秀は5/28昼に息子の光慶と家臣の東行澄らと愛宕神社へ。戦勝祈願と連歌会が予定されていた。その頃、四国に渡海する信孝軍は大わらわ。渡海は6/3と決定。→これにより長宗我部元親と姻戚関係があった斉藤道三など、光秀の縁者達は四国権益を失う危機に。信長は征伐後、四国の土佐以外を息子の信孝に与えようとしていた。

明智光秀の乱が6/2に決行となった理由ここにあり。信孝軍が四国に上陸してからでは万事遅いからね。

6/2のその日、家康は堺衆の茶会に招かれその席に丹羽長秀も居た。茶会が終わると家康と穴山梅雪斎一行は京に戻ろうとしていた。光秀は家康追討の命令を出している。まだ知らないが家康は追われる身に。茶屋四郎次郎本能寺の変を家康に知らせる為、馬を走らせていた。家康と茶屋四郎次郎は河内飯盛山付近で出会って信長が死んだ事を知った。逃げ切れないなら京の知恩院で腹を切ろうと決心した。が、本多平八郎が猛烈に反対。

家康一行から梅雪一行が離れ穴山梅雪斎は落武者狩りに追われ死ぬ。

今日はここまで。

本能寺の変は光秀の一存や思いつきでやったのではないと思う。愛宕百韻連歌会を思うと、むしろ、用意周到。

信長暗殺を計画した、お上を想う面々は、300年後の、天皇達が弑逆された明治維新をどう思っただろうね。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書。

16時に孫達が来訪。

今日のおやつ用に作ったカボチャ白玉を食べたらじいじと公園へ出かけて行った。

17時半から夕食作り。

秋刀魚と大根おろしコンソメスープ、豚肉の梅煮込み、サラダ。

良く呑み良く食べた。

今日は読書中、電磁波による攻撃でめっちゃ痒みを感じ掻きむしった。

↓腕

↓足

↓腿

↓腿裏

先週位に同じ階の住人宛に1m四方のデカい箱の荷物が10個程、一階エレベーター前の廊下を陣取って居た。

わいは、宣戦布告と受け取った。

周りは工作員だらけ。

で、数日前から電磁波攻撃の強度が強まった。

機器が最新版になったようだ。

武装の民間人に対し、軍事兵器を使うわけよ。

DSな。

わいの対処法?

冷やす。

以前蕁麻疹ボツボツの時は氷嚢で冷やした。

今回はエアコンと扇風機を使用。

夫には「電気代がー!」と言われたが、わいは服も化粧品も買わないし病院も美容院も行かない。

唯一の贅沢がエアコン。

それで許して貰った。

 

歩数計は9184。

充実した一日だった。