2024/9/18水曜日
4時半に起床し長女の朝食兼お弁当のおかず作り。
5時15分に畑へ。
恒例のミニトマト撮影。


水遣りをしていると種を蒔いた畝側に緑色の液体。

そして、これから種を蒔こうとしている所にも。

だから、緑色の液体の正体が何なのか犯行声明出せよ。
卑怯者めが。
昨日のツイートが応えたのか今日は指向性浣腸エネルギー攻撃は無かった。

幸せに畑の作業を終えたら6時半に帰宅。
シャワーと洗濯を済ませたらベランダガーデニング。
枯れ死したズッキーニの鉢の土を入れ替え、枇杷を大きい鉢に植え替える作業をして気付いた事。
ズッキーニを植えていた鉢には大量の幼虫が居たけれど枇杷の鉢には皆無。
もしかして、DSが幼虫達を仕込んだ?
ズッキーニを弱らせる為に。
どおりで花は咲けども実は成らなかった。
9時半に買い物へ。
帰宅後、11時から読書。
昨日に引き続き岩室忍著「本能寺前夜 上」
1561年、ガスパル・ヴィレラの尽力で京に初めて礼拝堂が建立され人々は南蛮寺と呼んだ。15年経過し老朽化した為、1576年、ルイス・フロイスとグネッキ・オルガンティノは所司代村井貞勝に建て替えを願い出た。
信長は南蛮交易を高く評価していたのですぐ許可。貞勝に以前より少し広い土地を与えるよう命じた。新しい場所は巨大寺院本能寺と同じ四条坊門小路に用意された。京では寺院が多く天皇や公家を始めキリスト教に反対する者が多かった。
9月になると信長は越前の一向一揆を掃討。越前を柴田勝家に与え方面牽制した。この方面牽制は画期的。明智軍、秀吉軍、信忠軍、滝川軍など方面牽制が可能になり西国や丹波、北国、東国などで同時に戦える事に。
信長は越前から戻ると10/13に威風堂々上洛。妙覚寺に入った。各地から続々と武将が挨拶に訪れた。多くの武将が信長を天下人と認めた。
長島一向一揆や越前一向一揆により危機に晒された本願寺の顕如は三好康長と松井友閑を仲介に和睦を申し入れた。この和睦はこのままでは本願寺が信長に潰されると考えた誠仁親王の命令で顕如が動いた。
11/4に信長はいきなり権大納言に就任。信長も驚いた。7日には右近衛大将に叙任。同時に信長の嫡男信忠が秋田城介に。朝廷の官位と秩序に天皇は見事に信長と信忠を取り込んだ。
信長はこれらを気に入り大量の砂金を献上すると同時に天皇に千石、誠仁親王に500石の知行を与えた。11/6と7には門跡、公家にも朱印状で新たな知行を実施。徳政令では公家の困窮は解消しなかったからだ。
仁和寺100石、勧修寺門跡30石、大覚寺97石、近衛前久300石、一条内基100石、勧修寺紹可入道尹豊30石、勧修寺晴右150石、勧修寺晴豊20石、山科言継20石、青蓮院100石、立入宗継15石、高倉永孝20石、内侍所453石など。
天正4年5/3に本願寺顕如(←お坊さん)が4度目!の挙兵。5/5に信長が出陣。海と山に囲まれた摂津石山本願寺への攻撃は難航を極めた。
7/13, 毛利軍の村上水軍が木津川河口沖に出現。信長は九鬼水軍を呼び攻撃させた。村上水軍は八百艘と船の数も凄いが強烈な武器を持っていた。
焙烙玉と焙烙火矢だ。
焙烙玉は丸い陶器の中に弾薬や油を入れ導火の火縄に火を付けて敵船に接近して投げ入れる。すると陶器が割れて燃え上がったり爆発したり船上が燃えたりした。
焙烙火矢は小型の焙烙玉を矢に取り付け、遠くの敵船を狙えるのが利点。
九鬼水軍は村上水軍に歯が立たず一刻半(3時間)もすると海上から姿を消した。村上水軍は悠々と大量の兵糧と武器弾薬を本願寺に入れ、颯爽と西国に引き上げて行った。
信長が2/14, 紀州本願寺攻めへ出陣すると天皇は3/19,戦勝祈祷。この頃、信長の命令で村井貞勝が進めていた禁裏の大修理が完了。問題は壊れ放題の禁裏の塀だった。
村井貞勝は一計を案じ京の町衆を集め「壊れた築地塀を直したいがその方らで築いてみてはどうか。天子様に直に奉公する絶好の機会。末代までの語り草になろうぞ」
これにいち早く賛同したのは茶屋四郎次郎。茶屋家は信濃小笠原家の家臣だったが小笠原家を辞すると三河徳川家に仕え商才を生かし京で呉服屋を始めた。
徳川家の呉服を一手に収めて大成功。京の三長者と呼ばれる豪商。将軍足利義輝が時々茶を飲みに立ち寄った事から茶屋という屋号になった。
その茶屋四郎次郎が賛同したので同じく三長者の角倉了以と後藤四郎兵衛も同意。
壊れた築地塀の前に飾り立てた舞台を設え稚児や若衆が総出で笛、太鼓、鉦鼓などで囃し立て老若男女が舞台に飛び乗って唄い大騒ぎ。舞台の周りでは祝い酒が振る舞われ、京の町衆が総出で大騒ぎ。
天皇もこんな、面白い事は無い、と紙と筆を持って勝手に出御し御歌を召された。女官や百官もその後ろをゾロゾロ。
久々に京が沸いている。→村井貞勝、ホンマええ事したな。
安土城下にはフロイスとオルガンティーノの願いを入れてセミナリヨ(神父学校)の建設も行われている。
越後の上杉謙信が上洛の動きを見せたので柴田勝家に織田軍を任せ加賀に向かわせた。そこでの軍議で勝家と秀吉が大喧嘩し勝手に離脱。勝家率いる織田軍は上杉謙信に大敗。この時上杉謙信は冬が近い事もあり深追いせず北に引き揚げた。今度は松永久秀が大和の信貴山城に籠城。直ちに信忠率いる織田軍に包囲され炎上。久秀・久通親子は自害した。
秀吉は播磨を1ヶ月で平定。信長は11/16に従二位に上階。20日右大臣に昇進。12/3に安土城へ帰城。天皇は禁裏の大改修を喜び、特に町衆による築地塀の修理を殊の外喜んだ。←村井貞勝のお手柄。
山科言継は1527〜1576の50年間に渡る日記、「言継卿記」を遺している。自分の病気に対する医療や剣豪上泉伊勢守信綱と三十数回会っている。酒豪で酒を飲みながら人脈を広めた。
信長は謀反した荒木村重の有岡城を攻撃する前に後ろから攻撃されないよう本願寺と和睦しないと、だ。村井貞勝からの申入れで大納言庭田重保と中納言勧修寺晴豊が交渉に本願寺へ。その最中、毛利水軍が出現。兵糧米を搬入しようとしていた。が、六隻の巨大軍船と一艘の安宅船を並べた九鬼水軍が迎え撃ち。六隻の鉄の船は全長十八間(32.4m)幅六間(10.8m)と巨大。装備している武器は鉄砲、大筒、小型の大砲など。動きの速い小早が鉄の船に近づくや鉄甲船の大砲が火を噴いた。大砲の弾丸は五十間(90m)から百間(180m)は飛ぶ。それに対し村上水軍は焙烙火矢を飛ばした。が、鉄甲に跳ね返されパラパラと海に落ちた。結果、村上水軍は本願寺に一粒の米も搬入する事無く撤退。
対して九鬼嘉隆の鉄甲船は無傷。本願寺も荒木村重も毛利の村上水軍に期待していたからその敗戦を知り絶望的に。
天皇の綸旨により信長と毛利は和睦。が、信長がオルガンティーノに命じていた高山右近の切り崩しに成功。続いて中川清秀も降伏。
ま、信長は自由にやりたかったのな。
それにしても京都所司代の村井貞勝の事はこの本を読むまで知らなかった。
応仁の乱から長期間戦乱が続いた京都に幸せをもたらしたな。
あと、九鬼水軍の鉄甲船にびっくりした。
安土桃山時代に既に鉄の船を造った実績があったとは。
流石信長。
夫が12時から用事がある、と言うので11時半に昨夜以来の食事。
午後も読書。
いつもは15時前後にお孫ちゃん達が遊びに来るが今日は雷雨に見舞われたので来なかった。
夫は自ら出向きお孫ちゃん達と遊んできたようだ。
17時から夕食作り。

鰹の塩タタキ、レンコン鶏つくね、もやしサラダ。
これに玄米ご飯となめこの味噌汁、ウォッカ梅酒ロックをプラス。
良く呑み良く食べた。
読書と調べ物をしてから寝ることに。
歩数計は9785。
充実した一日だった。