arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー997日目と畑

2024/6/4水曜日

4時に起床し洗濯と朝食、昼食作り。

朝の家事を済ませたら6時過ぎに畑へ。

 

昨日も大雨。

畑は湿っている。

水やりは必要無い。

が、ゲットしたばかりの竹酢液を掛ける事に。

竹酢液も木酢液同様、肥料にもなるし、防虫&害獣対策にもなる。

更に、肥料としては勿論、土壌の消毒にもなる。

大雨の際は泥はねにかこつけて病原菌を撒かれると予測。

木酢液よりも竹酢液の方が殺菌効果が高いそうなので、試してみる事に。

 

7時半に帰宅後、ベランダガーデニング。

苗用ポットに朝顔と枝豆の種を蒔いた。

8時半から読書。

 

昨日から河合敦著「窮鼠の一矢」を詠み始めた。

戊辰戦争時の村上藩五万石が舞台だ。

主人公の28歳の若き家老鳥居三十郎は長州征討の際、越後の高田藩に頼み込み観戦武官として従軍。

徳川四天王の榊原氏の高田藩は同じく四天王の井伊家の彦根藩と共に先陣を命じられた。

1,000人の高田藩の対するは200人の宍戸藩。

数的優位で勝てると思っていたら最新式のミニエー銃を前に蹴散らされた。

何せこちらが一発の弾を込めている間に相手は連射してくる。

三十郎は命からがら退散した。

こんな経験をし長州の洋式銃の威力を知っているだけに、藩主の内藤信親から村上藩は新政府軍に恭順する、と告げられた際は異論は無かった。

信親公も長年幕府の老中を務めていただけあって現実的。

幕府軍では到底勝てないと悟っている。

悟っていないのは国元の藩士達。

薩長が江戸で暴れ幕府を煽りまくり、先に手を出させた。

派幼君を後ろで操り徳川家を賊軍に仕立て上げた事を知っている。

三十郎は元藩主の密命で村上藩に帰藩。

村上藩は神君家康公の弟の系譜であることが自慢。

主戦派でほぼ纏まっている。

これを恭順派に纏める事を仰せつかった。

三十郎は帰藩後、まずは重臣達にその旨を告げた。

すると、皆が猛反対の大反対。

挙げ句に主戦派の父・鳥居内蔵助に呼ばれて行くと、逆に主戦派になるよう求められた。

ここからが凄い。

内蔵助と三十郎は父子で決闘。

勝負は父内蔵助の膝を深く斬った三十郎に軍配。

負けを認めた父・内蔵助はその場で刀を腹に突き立て十文字。

切腹をして果てた。

以下は父・内蔵助の言葉だ。

「負けるとわかっても義に生きる。正義は会津と庄内にある。それを扶くのが兵の道。」

「重責を担う者は士道に従って家中を導くべきであろう。」

信親公の懐刀の家老江坂與兵衛曰く「これは鳥居内蔵助による命を賭けた策謀。家中を主戦で固める為に最愛の息子を殺そうとし遂には己の命まで投げ出すとは」

父・内蔵助の死により、三十郎は50日間の喪に服す為身動き出来なくなった。

鳥居内蔵助は息子が翻意しないと判断した瞬間、その政治力を封殺すべく自分の命を差し出したのである。

 

午前中はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

お腹が満たされたら午後も読書。

 

再び「窮鼠の一矢」

元藩主で藩の実権を握っている内藤信親公は江戸留守居役を命じられた事を理由に村上に帰らずに居た。

19歳の若き藩主・内藤信民は村上に帰藩。

重臣一同を集めるやいきなり「恭順する」と告げた為、不興を買った。

その後、信民公は政治に関わらせて貰えず。

そして、自殺して果てた。

 

ニラ奴、四日市トンテキ、ナスとピーマンの味噌炒め、サラダ、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

 

歩数計は7641。

充実した一日だった。