2024/5/14 火曜日
6時に起床し洗濯と朝食作り。
9時半に自転車でフットサル教室へ。
最近、自宅での電磁波攻撃が減った。
が、外で、特に自動車運転中に感じるようになった。
それを回避するべくなるべく自転車で移動。
すると、今度は200m毎に人を配置。
ま、芸能人になった気分でやり過ごしている。
10時にフットサル教室に到着。
コーチ1名男性1名女子6名が参加。
いつものボールタッチとパス練習。
久しぶりに人数が8名と多いので早くもゲームをやることに。
12時まで楽しんだ。
スーパーで買い物をしてから帰宅後。
シャワーを浴びてから昨夜以来の食事。
お腹が満たされたら、午後は読書。
昨日に引き続き白虎隊本。
飯沼一元著「白虎隊士飯沼貞吉の回生」
会津戦争時、会津軍は歩兵軍隊を年齢別に玄武、青龍、朱雀、白虎と構成。
白虎隊は16-17歳。
任務は藩主の護衛。
その身分により士中、寄合、足軽の三種類に分類され更に2つの中隊に細分化された。
隊員数は約300名。
士中白虎隊には藩校日新館の学生の中から身体強壮、技量優等の約80名が選抜された。
飯沼貞吉は会津藩で物頭を務め家禄450石を拝領の飯沼一正の次男として生まれた。
母・ふみの長姉ゑんは山川家に嫁いでいる。
貞吉は新政府軍に出頭後、猪苗代の岡部新助の家に収容された。
そこで、同じ士中二番隊白虎隊のメンバー4名と再会。
士中二番隊白虎隊は篠田隊と山内隊に分かれていたがこの4名は全員山内隊。
篠田隊とは途中で分かれたのでその後何が起きたのか知りたがった。
5名で"あの日"何が起きたかを摺り合わせている。
①22日の午後滝沢本陣を出発し金堀、強清水を越え、赤井谷地近くの宿営地に到着したのは夕方6時。
そこで雨の中泥まみれになって胸壁作りをやらされたな。この時までは37名全員が一緒。
②胸壁作りが終わると一度強清水に戻り大野ヶ原方向に進軍。雨が酷くなったので菰槌山で露営。日向隊長は敢死隊に用があると1人隊を離れた。
③8/23の4時頃、進撃の時刻になっても日向隊長は戻らず。篠田隊員が隊長代行する事に。ここから山内隊と別行動に。篠田の号令で戸ノ口目指し進軍後1,100mで銃声が聞こえてきた。敵が近づいてから射撃。すると相手も応戦。士中白虎隊から3名の犠牲が出た。このままでは全滅する、と退却。
④帰城を目指す事にしたものの若松に至る滝沢坂の麓で敵軍に遭遇。1名が撃たれた。敵から身を隠すために弁天洞の洞門へ。ここで少し休憩後、飯盛山の高台へ。
ここで帰城するか玉砕するか大激論。ここで隊長代行の篠田は「死すべき義に当たったときに死して武士の本分を明らかにする」と締めくくった。
④8月23日午前10時、白虎隊士中二番隊篠田隊は自刃した。

以上、白虎隊の自刃までの行動の概略を整理してみた。
17時から夕食作り。

なめことしじみのもろみ汁、ぶり大根、牛ハツのネギソース掛け、キャベツと人参のナッツあえ、サラダ、玄米ご飯、ウォッカ梅酒ロック。
もりもり食べた。
お皿は長男が洗ってくれた。
ありがたく読書に勤しむことに。
歩数計は12506。
充実した一日だった。