arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1018日目と畑と弘安の役

2024/6/26水曜日

4時に起床し朝食作り。

5時半に畑へ。

 

いきなり、悪魔くんのお友達がお出迎え。

最初は蛇かと思った。

毎日畑に来てていきなりこのデカさに遭遇とか、悪魔くんが連れてきたとしか思えない。

それか、悪魔くん自体が憑依したか。

記念撮影後、華麗なるジャンピングスマッシュであの世へ行って貰った。

悪魔くんは魂だから解脱したから其辺に居る。

持参した苗を植え付けたら頑張ってる作物達に竹酢液のプレゼント。

雨にかこつけて色々撒かれているから葉が萎れたり黄変したり満身創痍。

栄養補給しないと、だ。

 

最近、我が家でも病人が多く皆、少食になり調理する量が減ったので生ゴミも減った。

今日は掘りネタ(穴掘って埋める生ゴミ)が少ないので穴掘りはお休み。

7時半に家に帰宅。

 

家の者達はまだ誰も起きて居なかった。

が、自分はやる事てんこ盛り。

シャワーを浴びたら、洗濯、納豆作り、苗ポット作り。

9時半に、突如じゃが芋掘りをする!と言う夫を畑まで送迎。

4月上旬に植え付けた分だ。

じゃが芋は植え付け100日間で収穫が目安だからまだ先の事と思っていた。

が、畑仲間から葉が枯れ始めているから、もう掘った方がいい、と言われ急遽収穫。

自分はその足で買い物へ。

10時半に帰宅。

大量の食材を収納したら11時。

じゃが芋掘りの夫は帰宅していた。

 

暫し、休憩したら昼食の用意。

12時に昨夜以来の食事。

自分は余りお腹が空かないのでパス。

 

午後は読書。

北陸の藩の歴史本を読んで勉強した。

特に加賀藩。 

めっちゃユニークな殿様多いのな。

勿論、名君も。

始祖の前田利家公が豪傑だからこれだけ続いてるのな。

それを支えたまつ夫人も素晴らしい。

 

16時から夕食作り。

 

ししゃも、鮭のみりんかす漬け、牛すじと大根の煮物、焼き芋、小松菜のナムル、コーンサラダ、なめこと豆腐のあおさ海苔味噌汁、玄米ご飯、残り物のラタトゥイユウォッカ梅酒ロック。

ウォッカは16時半から呑みながら調理。

キンキンキンに冷やして。

良く呑み良く食べた。

 

後片付け終了後、読書。

 

今日はいよいよ元寇2回目。

本番の弘安の役(1281年)

執権北条時宗は「来るなら来い!」とばかりに頻繁に来る使者を斬っている。

いや、その前の小手調べの文永の役対馬壱岐の多くの民間人が虐殺されている。

鎌倉武士にしてみれば、民間人を相手にするなど考えられない。

恥ずかしくて生きていけない。

が、恥を知らず、民間人だろうが関係無く斬殺する、というのが今回の相手(外人)

そう言えば、1945年とかにも日本の民間人を大虐殺した外人(鬼畜米兵とか言う)居たねー。

というわけで時宗:「来るなら来い」

で、待ってましたとばかり来た。

 

弘安の役(1281年)

弘安四年五月二十一日、東路軍の高麗兵が対馬に上陸。26日には壱岐の勝本浦へ上陸。

途中、逆風が吹き船が大揺れ。

兵士等150名が行方不明に。

対馬壱岐、博多には狼煙台が設けられ壱岐の島民はいち早く穴に隠れた。←壱岐で狼煙台も穴も見てきた。対馬と違い山が無い平坦な島だから隠れるのは大変。
ここで悲劇も起きている。赤ん坊の泣き声で隠れているのがバレると困るので我が子を刺殺したそうだ。

 

6/6, 東路軍が博多湾に出現。

前回同様炊事を開始。

ご飯を食べ始めた。

その夜、日本軍は夜討を展開。

まず、小舟で船に乗り移り結構斬ったあと敵兵を閉じ込め船扉を閉め火を放って帰ってきた。

海の中道をただの海と信じていた志賀島の高麗兵は海上を騎馬で押し渡ってきた軍勢を見て狼狽して逃げ惑った。
6/9, 安達泰盛の子盛宗が出撃。

麾下の新左近十郎、今井彦次郎、財部九郎等が討死している。

安達軍の攻撃が転機だったらしく東路軍全船団は博多湾から碇を上げて出航して行った。

3/5に合浦を出港し今が6/9。

35日間も海上に居て新鮮な水も野菜も無く、更に病気が蔓延。病死者は3千人に及んだ。

東路軍は壱岐に補給を求めに向かった。
東路軍が壱岐に再上陸したのは6/13。

そこだけでは補給が足りず長門国にも300艘が着岸。

なかなか江南軍が来ないので回軍に決定した後、江南軍の使船が到着。

都元帥の阿刺罕が重病により出立が遅れ、右副元帥の阿塔海が都元帥に就任し6/18に出立した、という。

日本軍も東路軍の行方を探っていた。

そこへ一報が。

「旧宋朝様式の兵船300艘が対馬に着岸」これは江南軍の先発隊。

だってあと3,200艘来るよね。

6/29頃から日本軍の逆襲が始まった。兵船多数に分乗し壱岐に向かった。特に29日は島津久経、長久兄弟が比志島時範、河田盛資ら薩摩国御家人を率いて殴り込み。東路軍が東岸の瀬戸浦(芦辺町)に碇泊していたので海上での合戦に。なかでも7/2の合戦は物凄かった。少弐資能(84歳❗)と資時(19歳)が龍造寺季時、山代栄ら肥前国御家人を率いて瀬戸浦に突入。資時は戦死。

資時公は12歳で文永の役でデビュー。

そして、弘安の役で19歳で散った。

彼も、北条時宗同様、元寇の役で活躍する為に生まれてきたようなもの。

743年の後に公論に問いたいところだわな。

資能84歳も深傷を負い太宰府で無くなった。天晴❗
この間、江南軍と連絡が取れた東路軍は徐々に鷹島に移動。

7月上旬に東路軍と江南軍は会同。

7日に鷹島の西側から上陸しようした。が、そこには既に松浦党の面々と薩摩国御家人比志島時範と共に馳せ着けた島津長久がスタンバっていた。
さっきまで壱岐で戦っていたのに、フットワーク軽いな。

 

江南軍は7/27の午後から28日に掛けて三方から鷹島に上陸作戦を敢行。

しかし、満を持し待機していたのは松浦党を中核とした日本軍。
7/30夜九州方面を大暴風雨が襲った。

翌朝、東路、江南両軍の兵船の大半は沈没。

鷹島に資料館ありまっせ。

論功行賞の為の首取り合戦が開始。

二千人が生け捕りに。

博多に連行され斬られた。

ちなみに高麗兵四万のうち生きて還ったのは約二万人だったそうだ。

以上、弘安の役のあらまし。

2度の元寇は神風が吹いただけでない。

一度目は小手調べだったので元軍は引き揚げた。

二度目は、日本側は対策を練り一度目の轍を踏ま無かった。

常に攻めの守りだった。

鎌倉武士のおかげよ。

 

 

歩数計は9171。

充実した一日だった。