2026/8/1土曜日
3時58分に覚醒し熊本余震をチェック。

寝ている間の余震は減っていた。
4時半から読書。
昨日に引き続き、大岡昇平著『レイテ戦記』
一方、状況は米第七師団にとっても芳しいものでは無かった。
「やりくり稜線」に勝ったと言っても戦線は12/1現在で11/23のそれと全く変わっていない。
前述のようにカモテス海沿岸は所々脊梁山脈から流れ出る急流によって造られた小平地を除いては岸から50メートルまで山が迫る。
それらの山地は全て国道を俯瞰射撃し得る位置にあって、米軍の進出路を脅かしていた。
特にダムラアン東北5キロの九一八高地(フィート標高。日本軍呼称二八◯高地)はオルモックからバイバイまでの40キロの海岸線を見晴らす要点であった。
その東北山中1キロ半にカン・ダギッ部落があり、更に1キロ西北にカン・カイントがある。
これはパラナス川の水源地帯からタブガス川上流に抜ける稜線上にあり、日本軍の迂回に備えて確保を要する。
タブガス川はパラナス川の北2キロで海に入る。
その中間にあるのがバロゴの村。
その東に三八◯高地(日本軍呼称一◯七高地)があり、日本兵が占拠。
高地から海岸までの幅は1キロ半。
タブガス川の北3キロで要衝アルブエラに達する。
が、それまでにカリントンガン・クリークとシブガイ川を渡らねばならない。
そして、クリークの東3キロ山に入って六◯六高地(日本軍呼称一八五高地)があった。
これらの高地が全て十三連隊の残兵によって「死守」されていた。
第七師団長アーノルド少将はこの山脚地帯を二個連隊並進で攻略する事に。
彼は一八四連隊に国道に沿って北方の威力偵察を命令。
第一七連隊が到着するまで前進を禁止。
後者は12/3にバイバイに到達。
アーノルド少将は直ちに連隊長会議を開き師団の任務を伝えると共に一八四連隊を左に、一七連隊を右に、2キロの正面の二連隊並進による攻撃発起を12/5の8時に決定した。
目標は北方8キロのタリサヤン川の線。
この川の幅はパラナス川と大差は無い。
が、海岸へ迫った山地から流れ出している為、海岸から1キロ入ると両側は険しい侵食崖となる。
南岸のマリトボからこの辺へ掛けてが日本軍の補給中継基地であるのを米軍は認知。
ブラウエンへ越える山道もここからタリサヤン川の両岸に沿って上がっている。
その南岸の道を日本軍が野砲道に作り替えようとしている事も把握。
ただ米軍は日本軍にはこれを遂行する能力が無いと思っていた。
従って米第七師団の進路には二十六師団全体が居ると信じていた。
タリサヤン川の線を突破すれば山は10キロ内陸に退き、イピルまで7キロ、開けた平坦地となる。
米軍七七師団の上陸日の七日までにこの川の線に到達出来れば理想的。
が、それはもう望めなかった。
これまで米軍円陣を山側から圧迫していた日本兵は、パラナス川対岸の高地を撤退。
別の一個大隊が川の対岸の、本道に接した高地に居ると信じられていた。
4日中、一八四連隊と一七連隊の諸隊は前方に偵察。
一八四連隊の斥候はバロゴの村に潜入。
同日夜、七七六水陸両用戦車大隊は夜暗に乗じ、バロゴの沖、1000ヤードの地点に集結命令が下された。
6:35,北上し町の手前200ヤードに接近、1キロ北方の町タブガス75ミリ備砲で砲撃。
7時、横隊となってタブガス川口に上陸。
山脚地帯一帯に2550発の砲弾を撃ち込んだ。
↑2250発て。
桁が違うぜー。
部隊はそれから再び海に浮かび2キロ北進。
カリントンガン川方面を偵察後帰途に着いた。
が、前回の上陸成功に気を良くし、再びタブガス川南方500ヤードの地点に上陸。
残りの砲弾を全部山脚地帯に撃ち込んだ。
日本軍の火砲の抵抗は全然無かった。
↑これ入力中の敵の攻撃いと激し。眠れ眠れ爆弾攻撃からの、お次は腰に電磁波攻撃〜。今布団の中だけどこのあと起床する時ぎっくり腰作戦!? で、立たせる為におしっこかウンコ集結予定。キリッ!
10:45、部隊は無事ダムラアンの陣地に帰陣(日本側記録、水陸両用戦車十三輛来襲。内1輛擱座炎上)
この間、本道方面の一八四連隊は行動発起。
予定通り、8時に「やりくり稜線」を出た左翼第一大隊は一発の弾を撃つ事なくパラナス川を渡河。
錯綜した稜線、瘤地を持った稜線が海岸から数百ヤードに迫り、峡谷と断崖で隔てられていた。
日本兵は北側の斜面に壕を掘っている。
が、その方面は切り立った急斜面。
砲撃は余り効き目無し。
米第二大隊が川の北岸の稜線に向い徐々に前進するうち、8:45, 稜線の向こう側から小火器の射撃を受ける。
米兵は手榴弾を投げながら前進。
が、9:38, 3挺の軽機によって阻止された。
↑これを入力中に、肛門に向けてウンコ緊急集結中。読書を阻止するよう厳命されている。無読書状態死守命令!!
第二大隊の支援砲火が正面の日本軍陣地に集中。
一◯三七、大隊が稜線頂上に到達した際、E中隊の左側に余り強くない反撃が発起。
↑断続的な攻撃展開され中。わいの予測通りの展開。トイレに急行!! 放射線攻撃も追加され中なう。atトイレ。
この攻撃は撃退。
が、E中隊は尚小火器と機関銃による攻撃を受け続けた。
この稜線を防いだのは独歩十一連隊の第五中隊。
13:25, 左翼第一大隊はまた進み始めた。
日本軍の反撃は無くその正面は静穏。
一四三五、大隊はバロゴの南の300ヤードの地点で野営の為の壕を掘削。
16:35, 一八四連隊の各大隊は縦深夜営円陣を構築。
「あらゆる犠牲の下に」確保するよう命令が下った。
↑米軍版「死守命令」か。
連隊長オサリバン大佐はこの日の戦果に不満足(実際、三個大隊の大部隊が第五中隊の一個小隊に牽制され1キロしか前進出来なかった)
大佐は翌6日の連隊の攻撃は第三大隊が中核となって三八◯高地を攻略すべきと考えた。
右翼一七連隊の受持の九一八高地方面では、戦いは一層駄目だった。
この高地はダムラアンの町東北5キロに位置。
「やりくり稜線」からは一旦下って鞍部となり再び比高200メートルの急な斜面を上る。
↑この部分の入力はそんなに不味いんか?横っ腹に電子銃。尚トイレ続行中。トイレ中も攻撃続行。趣味特技仕事が攻撃!!キリッ!!
23日ダムラアンの戦いが始まった時、米比軍第九四連隊の一個大隊(兵力300)が占拠。
が、戦いが激しくなり、米軍が中間鞍部から追われると共に撤収。
↑お次は日立製洗濯機に八つ当たり。
爆音発生中なう。
5日8時、第一大隊を左に、第二大隊を右に、三二連隊第三大隊を超越して前進開始。
9:06, 左翼第一大隊の先頭は、九一八高地に上る主尾根の南の稜線に取り付き、10時、大隊全員が稜線に集結完了。
尖兵小隊が更にその西側の稜線を目指した。
しかし、小隊は稜線頂上に近づくと激しい擲弾筒、機関銃、小銃の射撃を受ける。
米側の記録はこれを十一連隊第二大隊の射撃としているが、この部隊は本道方面にあり、山地は十三連隊の担当であった。
大隊主力が前進し、尖兵小隊を支援しようとしたが、これは2つの稜線の中間の涸れ谷からの十字砲火に捉えられた。
部隊は停止を余儀なくされ、右に連繫した第二大隊のG中隊との接触を喪失。
第一大隊と第二大隊の間に間隙が発生。
今日はここまで。
6時に起床し朝の家事。
やる事やったら、9時から自主防災組織の仕事。
明日自治会会議があるのでそれの準備。
何と昼まで掛かった。
12時半に昨夜以来の食事。
午後は調べ物。
その後の熊本地震の続報をチェック。
16時から夕食作り。

茹でとうもろこし、ワカメ人参サラダ、イカの生姜バター炒め、イワシハンバーグ、とろろ昆布味噌汁。
これに玄米ご飯とウォッカ梅酒ロックをプラス予定。
19時に食べる事に。
今からお便り配布お散歩に出かける事に。
歩数計は現時点1463。
充実した一日だった。