arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1518日目と彰義隊⑤と畑、のあとの昼食会

2025/11/5水曜日

4時に覚醒し読書と調べ物。

昨日に引き続き、加来耕三著「真説彰義隊

 

江戸城内の主戦論者がお役御免や登城禁止を宣告されている頃、伴門五郎の元に同志青木平九郎が信濃で捕縛の一報が。
青木は立花出雲守の密命を帯びて京都に上がらんと中山道を潜行中、東征軍の先鋒に見咎められ獄中の人に。
これはこれまで鬱憤してきた東征軍ー薩長への怒りに火をつける事に。
「奸徒共はどこまでも大公儀を朝敵と決めつけ、攻めて来るつもりか。こうなれば我らは君家の辱めを雪ぐ以外、武士を立てる道は無い」
本多敏三郎が前半、伴門五郎が後半を受け持ったという同志糾合の檄文が作成された。

我公元来、尊王の為に御誠忠を尽させられ、且つ昨冬宇内の形勢御洞察の上、二百年来の御祖業を一朝にして朝廷へ御帰し遊ばされ候公明至誠の御英断は、天人の知る所、然るに奸徒共に詐謀に因て、今日の危窮に至り候段、切歯に堪ゆ可からず候、君耻かしめらるれば臣死するの時、殊に御同様橋府以来随従の身にて、如何ぞ傍観相成るべきや。然れば各々共力同心して、一廉の御用に相備へ、多年の鴻恩に報いんは、此の時也。就ては百事御相談申度候間、明十二日昼九時雑司ヶ谷茗荷屋部晴雨共御出会えれあるべく候。此段廻状を以て申進候以上。
二月十一日(え!?)
橋府随従之有志
尚、此の廻状を以て御局中一橋卿御召連の諸君へ、急速御廻達の上、御銘々御姓名御承知附、御記し成さるべく候

この回覧は幕府陸軍の諸隊に属する一橋家出身者を対象に砲兵、騎兵、撤兵へとまわされた。(撤兵隊とは御持筒同心、御留守同心などが歩兵隊の予備軍として臨時に駆り出され、急造された部隊であり、撤兵奉行の倉橋長門守と白戸石助が一月二十八日より四月までの間、御役料八百両で統率)
勝を首班とする幕閣は主戦派の要職にあった者を江戸城から追い、他方、既に徳川家は幕府では無くなっている事を内外に印象付ける為、官位を廃止。

勝も単に“安房”と称した。
京への慶喜救解工作にも“陪臣”という言葉が使われ府内に屋敷を持つ諸侯の国許への帰国を強引に推し進めた。
京に於いては徳川と朝廷に交わる尾張藩先代藩主徳川慶勝や越前藩主松平春嶽らが慶喜の助命と徳川家の存続の為に八方に手を尽くしている。
慶喜公、天皇に対して何も悪い事してないのにね。

だが、東征軍大総督府参謀の西郷吉之助(42歳)などは

はなはだもって不届き千万、是非切腹までには参り申さず候ては相すまず、静寛院と申しても、やはり賊の一味となりて、退穏ぐらいにて相すみ候ことと思し召され候わば、致し方なく候につき、断然追討あらせられたき事と存じ奉り候。
かくまで押し詰め候ところを寛大に流れ候では、再びほぞをかむとも益なきわけに到り候わん。(大久保一蔵に宛てた書簡より)

 

と当然のことに官軍と称する東征軍をもって、あくまでも慶喜の生命を絶つことを目的としている。
勝らは慶喜に蟄居を願い出る。
慶喜は勝の提案に同意。
二月十二日午前五時、若年寄平岡丹波道弘、若年寄浅野美作氏祐、同じく服部筑前常純、側用人赤松左衛門範忠らに駕籠の周囲を固めさせ慶喜は上野東叡山大慈院に。
朝廷への恭順謝罪書を改めて松平大和守に託した。
上野謹慎の慶喜のもとに幕閣よりの市中達示が届けられる。

東叡山へ御謹慎中、西城の儀は田安殿(徳川義頼)、松平権堂へ御頼被成候旨被仰出候間、是迄の通り相勤め候様可被致候事

ここに新たに松平確堂(55歳)が登場。
確堂は1814年に生まれ、美作津山藩主を襲封。

老中も務めた名君で松平斉民が前名。1855年に41歳で若隠居。

絵や学問を友としていたが1865年、朝廷より公武合体への尽力を求める勅旨を受け中央に返り咲いた。
確堂は十一代将軍徳川家斉の第十一子。
最後の老中稲葉美濃守が辞職を願い出たのと入れ替わって幕閣入り。
慶喜にすれば、勝らの恭順策に奏功無く我が身に万一事が及んだら、次の手駒として使える、という目算もあったろう。
二月十三日、雑司ヶ谷鬼子母神堂門前の料亭茗荷屋幸吉のもとで檄文により一橋系陸軍将校を中心に初めての会合が持たれた。
出席者17名のうち名前のわかっているのは13名。
本多敏三郎、伴門五郎、須永於菟之輔、小林清五郎、田中清三郎、百井求之助、小川椙太、滝村尚吉、小笠原鑑三郎、栂野虎次郎、岡野誠一郎.間中竜吉、大川平三


十日後に“尊王恭順有志会”と称するこの集団は、後日結成される彰義隊とは別質な集団。
この者達の目的と意識は慶喜の生命を全うし名誉を挽回し昔日の権威を主君に取り戻す事。
薩長に対する憎悪を別にすれば、朝廷方と事を構えようとする意図があったかどうか、大いに疑問のあるところ。
17日、2度目の会合が四谷鮫ヶ橋入横町の円応寺で開催。
参加者は前回の2倍、30余名。
一同衆議の結果、一橋系幕臣のみに限定した呼び掛けを止め、徳川幕府と将軍への旧恩に報い、忠義を誓う直参に門戸を拡大する事とした。
幕府のためと慶喜の為、二兎を追う見解には矛盾が。
徳川幕府への忠誠、旧恩に報いるという主張の延長線上には東征軍との一戦を内包。
しかし、慶喜は恭順を表して謹慎中。
↑たがら三河以来の旗本の小栗上野介も帰農する事にした。

今日はここまで。

 

6時に畑へ。

いつものように液肥を施肥したら帰路に。

6時45分に帰宅後、洗濯、ベランダガーデニングの水遣り、中華麹とサツマイモあんこプリン作り。

9時に買い物へ。

帰宅後、10時半から読書と調べ物。

12時に長男一家がランチに到来。

一緒にあったかい冷や麦を食べた。

13時に帰って行った。

午後も読書と調べ物。

17時から夕食作り。

サンマと大根おろし、豚の生姜焼き、菊とろろ、サラダ、チーズ竹輪、ご飯と味噌汁、ウォッカ梅酒ロック。

19時に食べる事に。

 

歩数計は9053。

充実した一日だった。