arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1517日目と彰義隊④と畑、のあとの味噌作り

2025/11/4火曜日

4時に覚醒し読書と調べ物。

昨日に引き続き、加来耕三著「真説彰義隊

 

水野痴雲は自分が主張した事で戦って勝つという選択肢を摘み取ってしまった事に気付いた。
半年後、憂憤病を患いこの世を去った。

↑しかーし、水野痴雲こそ、岩瀬忠震失脚後、幕府の屋台骨を支えた俊英だったので御座る。

彼は、岩瀬忠震が左遷を言い渡された際、通貨問題の説明を受け引き継いだ。

彼に関する本も読んだ。

詳細は後述する。

 


その日2人目の犠牲者が。
幕臣の中にも既に数人憤死を遂げた者は居たが大名でありながら死を選んだのは2人目と言う意味。
信濃須坂藩主堀内蔵頭直虎(33歳)
彼は戦国の雄、堀監物の子孫。

その頑強な血を受け継ぎ、兵法、軍略が好きで和式はもとより、勝麟太郎の弟子赤松小三郎などにもついて洋式兵術を修め藩兵を洋式武装するなど幕閣では「唐人堀」と渾名される開明派であった。
先年、若年寄外国惣奉行となったが外様小藩からの幕閣登用は前代未聞の事だった。

↑彼に関する本も読んで気に入ったので購入した。


大評定後、伴門五郎、本多敏三郎ら一橋家家臣は3度目の上書を慶喜へ提出。
前二度の献言に比べ将軍の恭順を認め布告を出して江戸中にその実をあげることを第一に訴えている点が注目される。
一、朝廷へ御恭順の道、被為蓋候に付ては速に諸侯へも使を馳せ共に尊奉の力を請求して至当の親藩上京為致度儀第二に御座候

 

闇雲な武力による薩長討伐論から朝廷に哀訴するという一条が加わっている。
具体的には嘗て幕府の政事総裁職を務めた事もある上野前橋藩主、松平大和守直克に上洛して助命を哀訴してもらうということ。
しかし、伴ら一陸軍士官が説得するには荷が勝ち過ぎた。
そこで御使番格(将軍の幕僚)小田井信濃守一成。
彼は先祖代々の幕臣ではなかった。
二本松藩の出身で15歳で国許を出奔。
本川駿河守の下僕に。
後に学僕に。
槍を嗜んだ駿河守が槍術の手ほどきをすると筋が良い。

神道無念流練兵館道場へ入門させた。

ある時会津藩きっての槍の名手志賀小太郎と試合し見事倒した。
その後、見込まれて七千石の旗本の家に養子縁組。
1855年, 箱館奉行織部正に付いて樺太にも出張している。
彼は以降、北方領土の問題に取り組み1858年には蝦夷江差奉行に抜擢され混迷する日露外交の一翼を担った。
1863年には新撰組の編成にも一役買い、御使番に出世。
御使番は堕落する旗本八万騎の中で見どころのある者、やる気のある旗本を選りすぐって抜擢。
将来の幕閣、幹部育成のステップとした役職。
平時は将軍の命令伝達や上使、諸国巡察を役目としていた。
通常は二条、大坂、駿府甲府などに分かれて詰めている。記録によるとこの頃御使番は110余名居た。
彼は役目柄慶喜の側近、一橋系の官僚と会合を持つ事も多く、中でも松平大和守と親しかった。
伴門五郎はそこに目を付け小田井を同道し大和守屋敷に赴いたがなかなか同意してくれない。
そこで小田井は一計を案じ老中格立花出雲守へ目通りを願出、彼を説いて慶喜へ提言させるべく仕向ける事に。
その思惑は当たり出雲守から慶喜への奏上により目付黒川近江守と川村恵十郎を従え慶喜恭順の意を代弁すべく江戸を出立。
が、京で志を果たし得なかった。

薩長は彼等を軟弱な公家連中と会わせなかった。
慶應四年一月二十三日、徳川最期の幕閣人事が松平周防守より伝達された。


海軍総裁 矢田堀鴻 直参百俵取
副総裁 榎本和泉守武揚 直参百俵取
陸軍総裁 勝安房守義邦 直参百俵取
副総裁 藤沢志摩守次謙 直参千五百石取
会計総裁 大久保一翁忠寛 直参五百石取
副総裁 成島大隅守惟弘 直参三百俵取
外国事務総裁 山口駿河守直毅 直参百俵取
副総裁 河津伊豆守祐邦 直参百俵取

 

老中達が次々と辞職した後、勝を首班とする最高首脳部は未だ根強い反対派がまさかと思う間もなく、電光石火、若年寄の更迭、左遷を断行。
代わって新に若年寄に任じられた人々は“並”から昇格した浅野美作守の他は
服部筑前守常純 直参600石取
今川刑部大輔範敍 直参千石取
勝部遠江守良弼 直参三千百三十七石取
また、先年フランスとの同盟交渉に失敗した事を以て自宅に引き籠もっていた直参百俵取の向山隼人正一履(黄村)が勝のたっての要請で登城。
老中、若年寄に対する処理の鋒先は小栗の勢力圏だった勘定奉行所へ。
恭順派で南町奉行だった朝比奈甲斐守が小栗上野介の後任の勘定奉行に。
それから僅か半月の間に小野主膳正、小栗下総守、佐藤石見守らが揃って寄合席(無役)に落とされた。
大久保一翁、河津伊豆守らとの連携で内部工作を行ったように思われる。
2月にはフランス滞在中の栗本安芸守を罷免。
尤も、朝比奈甲斐守、菊地丹後守は総裁制発足と同時に、在職13日でやめてはいる。が、これは全て手筈を整えてからの事であり、且つ、和平恭順派からも平等にお役御免が出た事を印象付ける為の一種の見せかけでは無かったろうか。

新たにこの時期縮小した徳川財政の把握、財政確立に3人の少壮官僚が加わっている。
前大坂町奉行の松本寿太夫、前砲兵頭の原弥一郎、そして、公事方と勝手方を兼帯するよう命ぜられた前外国奉行の平岡和泉守準。
町奉行南町奉行に黒川近江守盛泰が抜擢され、北町奉行には松浦越中守信寔が任命された。
この両名は黒川が撤兵奉行下の差図役、松浦は騎兵頭を永年務めた陸軍所出身。
その他新しい幕閣の顔触れは全体の1/3以上が陸軍畑出身者。

寺社奉行に異動無し。
そのうちの一人戸田土佐守は2/19に慶喜救解を図るべく江戸へ出立。
土屋采女正(水戸斉昭のいとこ)も“勤皇翼幕”を主旨として独自に活動。
この役職は有名無実化していたようだ。
大目付は元来5名が定員だったのが10名に増員。
滝川播磨守と合原左衛門尉義直以外を全て罷免後、次の3名を新任。

河田相模守熙 前目付
梅沢孫太郎 前一橋附用人
堀錠之助 同上

大目付5人のうち将軍慶喜個人の側近が2名組み込まれた。
これは慶喜が勝や大久保に示した不信の具現化に他ならない。

今日はここまで。

 

6時過ぎに畑へ。

先週苦土石灰を撒いた所に肥料を施肥し耕作。

そして、いつものように液肥を施肥したら帰路に。

7時に帰宅後、納豆作り、味噌用大豆蒸し、サツマイモ小豆蒸しパン作り。

合間に洗濯とシャワーとベランダガーデニングの水遣り。

嫁の熱が下がらなかったら今日も預かるので朝のうちにやる事をやってしまう事に。

8時過ぎに熱は下がったので大丈夫です、と連絡が。

取り敢えず、おやつ用に蒸しパンとクッキーを届けた。

ついでに買い物をして帰宅。

圧力鍋の中の味噌仕込み用大豆は40度まで下がっていた。

一生懸命手で潰したら、塩を混ぜた糖化麹(失敗麹)を混ぜ混ぜ。

今回は糖化麹で西京味噌風味噌を作る。

豆は若干固めに茹で上がった。

それはそれで豆を味わえていいかも。

この味噌は2週間で完成。

その後2週間で食べ切る予定。

塩は7%で塩分が少ないので賞味期限が短い。

来月の味噌作りに向けて良い練習にもなる。

11時から読書と調べ物。

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書と調べ物。

16時半から夕食作り。

おろし鰯豆腐ハンバーグ、砂肝、キャベツの千切り、サワークリーム味噌スープ、柿、ウォッカ梅酒ロック。

今からご飯を食べる事に。

 

歩数計は9298。

充実した一日だった。