2025/11/1土曜日
4時に覚醒し読書と調べ物。
昨日に引き続き、河野正男著「小栗上野介をめぐる秘話」
岩鼻県の知県事となった大音龍太郎はこれまでの旧態依然とした徳川とは違った天皇政治の実を示そうと、孝を尽くしたとして一介の女性を褒章してみたり、上州は旗本領や幕府領の複雑な行政区域の欠陥から博徒が蔓延し、また各地に蜂起する過激な農民一揆を防止する為、知県事となった慶応四年六月から八月の僅かな間に無宿者や博徒など引っ捕らえては有無も言わせず烏川の岩鼻河原で連日斬首。
これを対岸の中島村から見ていたのが後の県会議員、高津仲次郎で少年時代に目撃した事実を昭和3年9月5日の上毛新聞に語っている。
小栗上野介主従達を権田村の水沼河原と高崎で斬首した事件や大した罪も無い博徒の首をやたらと斬り上州人から“首斬り知県事”と陰で怨まれ罵られた龍太郎は僅か半年程の12/7,岩鼻県知県事を罷免させられた。
その後の再龍と龍太郎の2人の行先と行動は謎に包まれている。
これに対し、副軍監であった原保太郎は温仁な性格からか岩倉具視の推薦を受けアメリカへ公費留学。
帰国後は山口県知事を14年間も務め、更に北海道庁庁官など歴任。
晩年は勅選議員となり、上野精養軒の社長など兼任。
↑この差は何なんだろうね。
ここからは、加来耕三著「真説 上野彰義隊ー慶応四年の知られざる日々ー」

鳥羽・伏見の戦報が江戸に到着したのは正月8日四ッ刻(午前10時)
当時江戸城には、
宿老 稲葉美濃守正邦
老中 松平周防守康英
老中 小笠原壱岐守長行
老中格 大給縫殿頭乗謨
老中格 稲葉兵部大輔正巳
などが将軍慶喜の留守を預かっていた。
が、彼等には城内の混乱を鎮静させる術は無かった。
皆が平常心を失っている時、一人冷静に上方の戦局を分析している男が居た。
勘定奉行兼陸軍奉行並、幕臣小栗上野介忠順(42歳)である。
彼はすぐさま後詰めの第二次派兵を計画。
京都進軍幕府総兵力
幕府直属軍 16400余。
会津・桑名その他諸隊、諸藩連合軍 7300余。
総計 23700余。
薩長同盟軍 総計 6000余。
正月4日早朝、劣勢だった薩長同盟軍は遂に切り札を繰り出す。
手中の“玉(天皇)”を擁し仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍(征夷大将軍と同格)として幼帝(明治天皇)より赤地に黄金色の太陽、銀色の月輪を描いた“錦旗(岩倉具視発注)”を下させ、合わせて節刀を与えるという演出をやってのける。
親王は東寺に出陣。
ここから幕府軍の計画は狂い始める。
これを見て鳥羽を進軍中の総将(先鋒総督)、老中松平豊前守正質は若年寄永井玄蕃頭尚志と計り将軍家に指示を仰ぐ事に。伏見の竹中丹後守へ伝令を飛ばし友軍を淀城まで退去させる事を命じた。
幕府直属軍及び諸藩の連合軍は不意の総退却命令に驚愕しながらも困難な退去を開始。
ところが、そこへ幕府方にとって、第二の不幸が見舞う。
未だ向背を決しかねていた淀藩が自藩の城門を閉ざし収容する筈の幕府方の軍勢を閉め出す。
↑土方歳三もびっくり!
上の方に書いてあるけど、淀藩て老中稲葉正邦の藩やで。
春日局の子孫の。
徳川恩顧やねーの?
春日局は明智光秀家臣の斎藤利三の娘で秀忠夫人の小ごうの方にとっては叔父(織田信長)を殺した仇。
その娘の春日局を家光の乳母に拾って貰って、更にその息子達を小姓やら何やら取り立てて貰っての稲葉氏やろ。
更に6日には藤堂藩の山崎砲台が幕府軍に向かって発砲を開始。
↑主君をコロコロ変えた藤堂高虎の子孫がこの裏切りをやるか?
藤堂を重臣として取り立てた家康もびっくりやろ。
面目を失った竹中丹後守は程なく罷免され登城禁止の沙汰が下る。
三河武士としての屈辱と無念に苛まれた後、彼は家臣数十名を率い一隊を組織。
程なく備中国庭瀬藩の江戸詰脱藩者18名、石見国浜田藩の佐幕派脱藩者5,60名が加わり総勢約300名の純忠隊が結成された。
4月下旬、竹中は全ての肩書を放棄。
石黒五郎太と変名し彰義隊を支援すべく上野に入城する。
正月13日、土佐山内家の支藩である土佐新田藩主山内摂津守豊福が自己の信ずる再征と官軍に参加した宗家の意志に板挟みとなり夫人と共に自刃。
享年33歳。
江戸城が即一戦論と武備優先論に割れ大騒ぎしている15日、若手陸軍将校達は慶喜に宛てて再び建白書を準備。
↑前回はいつかと調べたら正月14日に、城内の評定に加われない中堅以下の幕臣達に設けられた個別の席だった。
一橋系の陸軍調役並伴門五郎、本多敏三郎、同勤方須永菟之輔、青木平九郎、同下役狩野弥吉ら若手将校は当時としては破天荒な建白書を主君慶喜に突き付けている。
↑名の知れた方々も居るがこれらの人々も小評定にすら加われなかったのな。
けれど、意見を言う場が設けられたのは良かった。
将軍へ建白書も提出出来たし。
破天荒だけれど、幕臣達の進退に関わる事、自分たちの存在に関わる事だからね。
方今御急務の件々不憚忌憚左に次第を以て奉献言候
一、君上御深慮の旨下々へ貫徹仕候様致度就ては乍恐是迄の御処置は曲て御失徳とも御表し被為遊御直筆にて衆人へ御謝し被為遊候様仕度候事
言辞は幕臣の分を守っているが将軍に自らの失策を認めて、
附君上是迄の御行跡御辛苦被為遊候御儀は閣老衆にて巨細書取り御布告有之度候事
幕臣はもとより江戸市民にその旨を告白せよと迫っている。
建白書はそのあと、官軍を反幕諸藩の“奸徒”と決めつけ、これを迎撃する具体的な作戦を開陳。
関八州を基盤に、東北、奥羽、越後の諸藩を東軍として連合統率し、奸徒の東征を見越して東海道の駿府、遠江、三河はもとより甲信地方の所域へも守備兵を差し向ける事を提案。
しかも、〈尤も兵は何れも其地の農夫猟人等御召募之寿事〉とある。
伴門五郎らは将軍が“政権移譲”を表明したとは言え未だ徳川幕府の存在を肯定していた事が窺える。
作戦自体は海軍も同調する事を記し第三項目へ。
一、人心不服の儀は乍恐君上洋習に御辟僻泥被為在候より起り候儀に付砲歩兵の外は第一遊撃隊等は素より刀槍隊に付銘々辨とする所に従ひ陣羽織小袴等勝手次第着用不苦旨御布告の事
これは興味深い。
幕府は慶喜主導になってより軍制を一変。
西洋かぶれの激しい彼が幕権を不動のものにするべく推進したのだが幕臣の受けは良くなかった。
陸戦の主力となっている洋式歩兵に対してすら、その軍装が小倉木綿の筒袖四布袴、脇差し一本、貲布の羽織という出立ちなら“茶袋”などと渾名。
「あれは雑兵のやるもんよ」
旗本の多くは侮蔑の目を向けていた。
砲兵の重要さや集団戦法を認めつつも素直に洋式化を受け入れられない幕臣気質である。
建白書は万一の時慶喜へ江戸城に代わりうる唯一の堅城として甲府城への移城を勧めている。
建白書は最後を次のように締めくくっている。
尤御取捨の品も可有御座存候間御採用難相成條は御下札を以て承知仕度此段泣血奉懇願候以上
↑一橋系の幕臣達はこの後、渋沢成一郎を旗頭に彰義隊を結成するのであった。
今日はここまで。
6時半に起床。
7時に近所の幼稚園へ。
孫の入園前の面接等の整理券配布に向けて並ぶ事に。
本来の受付は9時半から。
が、念の為並ぶ事に。
そういえば、27年前も一人目の入園手続きに向けて1時間前に並んで整理券をゲットした。
幼稚園は3人共に茨城県の幼稚園だった。さいたま市の幼稚園の状況は全くわからない。
7時半に並んでいるともう1人並びに来た。
その方も孫の入園に向けて、と言っていた。
暫し談笑していると8時過ぎに園の職員の方が来て募集人員と願書配布数は同じなので全員入れますので並ばなくて大丈夫です、と伝えに来た。
ありがたく、解散。
長男にもそれを連絡。
帰路に。
帰宅後、シャワーと洗濯。
合間にベランダガーデニングの水遣りとカボチャプリン、カボチャクッキー作り。


更に小豆を茹でてあんこ作り。
おやつを作り終えたら11時から読書と調べ物。
12時に昨夜以来の食事。
13時に長男宅へおやつのお裾分け。
孫は「幼稚園に行ってきた」と笑顔で教えてくれた。
嫁からは面接の様子等を聞いた。
14時にお暇。
帰宅後、自分もおやつ。
搗きたてののお餅であんころ餅を食べた。
17時から夕食の用意。
と言っても夫は昨日から体調不良。
残り物メインで、温奴のみ準備。

19時に食べる事に。
歩数計は7214。
充実した一日だった。