arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1513日目と小栗上野介をめぐる秘話①と畑

2025/10/31金曜日

3時に覚醒し読書と調べ物。

 

今日はこの本。

河野正男著「小栗上野介をめぐる秘話」



前半はお金の事に関する内容。
興味無いので、それ以外で気になった情報をアップ。

小栗上野介忠順を倉渕村水沼河畔に葬り群馬県の前身・岩鼻県の知県事に任じ辣腕を揮った大音龍太郎。
実はその師匠とも言うべき人は群馬の勤皇僧と言われた牧野再龍(玉龍)であった。
慶応四年(1688)三月、討幕に燃えていた勤皇派の大音龍太郎は東山道先鋒総督府の先鋒を統率する軍艦として討幕の兵士を従えて高崎にある布留山石上寺と慈光山安国寺に分駐。
軍艦となった大音龍太郎(厚龍)の生まれは近江北部の伊香郡伊香具村大音で父の大音周倫(厚斎)は彦根藩郷士であると共に村医をしていた。
且つ、彦根藩支配下にある北国街道と若狭街道の分岐点で最も重要な柳ヶ瀬関所の関守でもあった。
龍太郎が生まれた家は賤ヶ岳七本槍で有名な賤ヶ岳古戦場の東方山麓
1840年2月19日に生まれ上州に東山道先鋒軍軍艦として君臨した時、29歳の青年だった。
1854年、14歳で江戸に出て昌平黌の河田迪斎に学ぶうち時の情勢と師が唱える勤皇論から勤皇に目覚めた。
安政二年(1855)の大地震をきっかけに江戸を離れ予て先輩から話を聞いて敬慕していた上州東明屋村の龍門寺に至り住職で勤皇学者の卍岫道介和尚(牧野再龍)に弟子入り。
↑15歳から権田村から六里の龍門寺に住んでいた、と。

めっちゃ土地勘あるな。

 

道介和尚は頼みとしていた公卿の岩倉具視が下野した事で将来を案じ今後の勤皇活動をどう展開するかを龍太郎を使者に聞く事に。
大音龍太郎が生まれた大音村に近い彦根には大音氏族の菩提寺である臨済宗の弘徳山龍潭寺があり、その隣地には上州北群馬郡子持村の最大山雙林寺の愚明正察禅師が井伊直孝から招聘を請け1631年に住職になったと言う巨刹の曹洞宗、祥寿山清涼寺があり、両寺とも彦根藩井伊家所縁の寺であった。
上州に所在する榛名山龍門寺や高崎の高崎山龍広寺共々井伊家に縁が深い寺である。
清涼寺は代々高僧が勤める格式高い寺院であってそこの住職を勤めた鴻雪爪(本姓宮地氏)は嘗て再龍和尚が江戸駒込曹洞宗、諏訪山吉祥寺の学寮で学んで居た時の学識高い教授。

歳は再龍より7歳年上で勤勉な僧。
学徳兼備の鴻和尚は一般庶民にはほど遠い朝廷の高貴な公卿などともツテがあり、再龍和尚はこの鴻和尚に弟子の大音龍太郎が尊皇活動の総元締の岩倉具視卿に面識を得られるように依頼。
こうして大音龍太郎は京都に行く事に。
その頃の京都では鎖国攘夷論が沸騰。
紹介役の鴻和尚のおかげで龍太郎は間もなく岩倉村に蟄居中の岩倉卿の茅屋に御庭番の名目で雇われた。
ちなみに明治時代の小栗上野介研究家の早川珪村は青年の頃、牧野再龍の講義を聴講した事があるそう。
再龍が読む詩経の声は大きく懇切丁寧で越後訛りの方言で話したと語っている。
牧野再龍は幕末の勤皇機運が高まる折には上州にあって勤皇を論じた。
近辺の藩士達も絶え間なく龍門寺を訪れ勤皇談義の温床になったと伝えられる。
↑勤皇教の布教活動やな。

 

嘗ての箕輪城主、井伊直政より五十石の朱印を賜り十万石の格式を誇った巨刹の龍門寺も大勢の勤皇の藩士や学者達の応接に少なからずの財産を費し次第に荒れに。
寺の貴重は財産を失う程まで勤皇の為に尽くした西毛屈指の勤皇家でありながら、牧野再龍の名前は世に知れず。
牧野再龍は立ち上がった官軍に感激し大音龍太郎からの顧問招聘を快諾。
僧衣を纏ったまま馬に打ち跨り、これまで徳川幕府に恩顧を感じ官軍に帰順する事を躊躇っていた上越諸藩の間を駆け巡り勤皇の大義を説きながら念願であった王政に復せる時期が今こそ到来したとばかりに張り切って活躍。
↑終わりの始まりに大貢献。

 

上州はその頃博徒や農民の一揆が各地に起こり治政は乱れた。
一揆を断ち切るには「厳以て之を鎮す」のが不可欠と顧問の牧野再龍が主張。
大音は軍艦と知県事の権限を以て博徒や農民を一言の弁明も許さずに斬首。
博徒や農民を煽るだけ煽り、権田村へも攻めさせといて、小栗斬首を達成した後は、口封じの始まり、と。

 

この刑罰が余りにも厳酷過ぎた為、大音龍太郎は「人斬り龍太郎」と呼ばれた。
彼の後ろ盾の牧野再龍も県民から憎まれる事に。
維新当時には近隣の村人達から尊敬もされず、憎まれ気味に“官軍坊主”と言われた。

早川珪村は後年、大音龍太郎本人と直接会って維新当時に知県事として行き過ぎた行為を悔悟した話を聞いている事実もある。
勤皇家であった牧野再龍の生家は越後国刈羽郡中田村(新潟県柏崎市中田)にあって始祖は長岡城主牧野駿河守忠成の亜流と言われ、俗に越後三郡では古来より“長男牧野”と称され、今以て長岡城主の後裔を誇る旧家は厳然たる構えで現在に続いている。
“長男牧野”家の当主、牧野一慶氏は柏崎市中浜町に鎮座する郷社、豊洲神社の神官をしておられる。
通称として代々市平を世襲
それを廃した鹿之助は叔父の牧野再龍にあやかり自ら「子龍」の雅号を用い再龍の硯学を偲び誇りにしていた。
代々続く牧野市平家の三男に生まれた再龍は7歳の時隣村の古刹、曹洞宗長谷山福勝寺の活州歓龍和尚の許に通い手習いを始めた。
その秀才ぶりに驚いた和尚は北越でも著名な神興山普広寺住職の北条剛転和尚に再龍を紹介。
利発な再龍はそこでも未だ文韻が難しい漢詩まで習得。
和尚は上州の漢詩壇で著名な卍菴僧三和尚とお互いの詩文を交換し切磋琢磨していた。
再龍は僧三和尚の詩を見ては次韻(他人が作った漢詩の韻を踏んで作る詩文)を作り龍広寺の僧三和尚の許に時々送っていた。
和尚はそれを見て自分の弟子に欲しくなり剛転和尚に申し出、快諾された。
1840年、21歳の時、十万石の格式を持った兄寺の榛名山龍門寺で法号を卍柚道介と名乗り得度。
僧三和尚は1844年、榛名山龍門寺住職に栄進。
一方、和尚は再龍が仏教界で高僧に成る事に望みを託し江戸は駒込曹洞宗の巨刹、諏訪山吉祥寺の旃檀林に送り出した。
この旃檀林で上州出身の大橋訥庵や星野華村ら同様に勤皇思想に触れ吉田松陰らの影響を強く受ける事になる。
再龍は旃檀林に学ぶ事数年にして教授に請われる迄に成長。
丁度その頃、1853年、徳川幕府開闢以来二百数十年間も連綿安閑としてきた泰平な幕府を震撼させる黒船ペリー来航事件が発生。
旃檀林では幅広い学識を持つ優れた僧を失う恐れを感じ一時江戸から離れるよう指導。
再龍は龍広寺に戻った。
再龍は僧三和尚が病に倒れた後、後住として龍門寺住職に。
慶応四年には大音龍太郎の顧問となり龍門寺の住職から退いた。
明治十二年には還俗し妻と前橋市紺屋町で近隣の子弟に漢学を教えて居た。

今日はここまで。

 

6時に畑へ。

まずはゴーヤを収穫。

そして、落花生の収穫。

去年よりは収穫出来た。

最低限、孫達の歳の分を確保出来ればええ。

大根を一本収穫。

ここの所、大根が高いので助かる。

 

帰宅後、シャワーと洗濯。

ベランダガーデニングの水遣りも済ませたら買い物へ。

帰宅後、昨夜以来の食事の用意。

夫にはかき揚げ蕎麦を調理。

自分は納豆ご飯と味噌汁メイン。

午後も読書と調べ物。

17時から夕食作り。

ひき肉と卵と大根の葉&ゴーヤで三色丼、ローストナッツ、ウォッカ梅酒ロック。

19時に食べる事に。

 

歩数計は9271。

充実した一日だった。