2025/10/29水曜日
3時半に覚醒し読書と調べ物。
昨日に引き続き、星亮一著「上州権田村の驟雨〜小栗上野介の生涯」
銀十郎の所属する越後方面隊はこの時、第二次突撃隊を編成し、城外の敵を殲滅する最後の作戦に入ろうとしていた。
銀十郎はこの戦いで戦死。
それは9/11。
↑悪魔(悪魔)儀式だったんかー!
そういえば、ハロウィン近いね。
銀十郎が所属する朱雀四番士中隊は熊倉付近で芸州、長州、松代の敵と一進一退の攻防を繰り広げていた。
銀十郎は田園を北から南に流れる小塩川堰の窪地に身を伏せ銃撃。
平石弁蔵の『会津戊辰戦争』にその時の戦いが記されている。
著者の平石弁蔵は若松二十九連隊付きの陸軍大尉で大正元年に会津若松市の丸八商店出版部から発刊した。
『会津戊辰戦史』が多くの専門家を動員して編纂したのに比べると、個人的な取材だが、熊倉の戦いは平石の方がより詳細に記述。
当初、戦いは会津軍が優勢。
↑わいの予想。
途中から悪魔登場。
松代の兵驚き潰走し後続隊また続いて敗れ、輜重を棄てて走る。東軍これを追うて小田付に達す。西軍止まりこれを防ぐ。東軍すなわち火を小荒井に縦ちて夾撃す。西軍支えずまさに潰走せんとす。
時に塩川に向かいたる西軍、急を聞き来たり援け、上高額村より東軍の側面を衝き村落内に於いて格闘、時を移す。西軍機に乗じ一斉に殺到し来る。東軍遂に退く。
銀十郎は深追いして側面の敵に射ち斃された。
この辺りで戦死した会津兵は銀十郎を含めて15名に達し、同じ小栗歩兵、佐藤福松が涙ながらに遺体を収容し葬った。
尚、『会北史談』(喜多方市)第二十二号に柚木伸稲『熊倉の杉下墓地にある佐藤銀十郎の墓の物語』がある。
銀十郎は隊長町野主水の片腕であった。
戦法を心得ていたし、度胸もあった。
熊倉の杉の下墓地に銀十郎の墓がある。
高さ80cm程の小さな墓石に
生国上野佐藤銀十郎信一墓
明治元戊辰九月十一日
行年二十一
とある。
外に戦死者の墓石は見当たらない。
特別の扱いと言って良い。
それは何故か。
銀十郎はこの誠志隊にとって特別の人間では無かったのか。
そして墓石の建立には町野主水自身が深く関わっていたのではないかと推察される。
無事にくに子を分娩したあとの上野介夫人道子は、珪村によれば、母子共に健全。
小栗夫人は会津で冬を過ごし翌明治三年春に上京。
道中、人夫に不当な代金を強要され危険な旅であったという。
ともかくも江戸に着き、ほっとしたが、もう嘗ての江戸では無く、徳川家の家臣達は静岡に移っている為老母、夫人、幼児の3人に三左衛門が付き添って今度は静岡に向かい、漸く安住の地を見出すのである。
夫人と母堂は勿論の事、三左衛門と娘さいの苦労はいかばかりであったか。
一年余りに及ぶ逃避行は戊辰戦争史を飾る一大美談であったといえよう。
その後の一行について、早川珪村によると、
大隈侯爵夫人三枝氏は上野介の忠順と従妹なる関係により小栗家の為侯爵の媒介にて矢野文雄氏の舎弟、貞雄氏と忠順の遺児くに子の成婚を成し、小栗家を相続せしめ、夫婦間に男子を挙げ又一と名付け、今現に相州国府津に住居せらる。
三左衛門等に小栗家を再興し、上野介より委嘱されたる任務、全く尽きたるを以て、同家を辞し、故郷権田村に帰村したり。当時権田村は前橋藩鎮撫の名にて所管せり。よって同藩庁へ三左衛門等を召出され、尋問せられたるにより、上野介の委嘱にて、老母鏡寿院、夫人道子等を保護して越後路より会津城に奔り、騒乱平定後、静岡に至り、小栗家を再興し、委嘱の任務を果たし、帰国したる顛末を陳述したるに、前橋藩吏員も大いに感嘆せられ、汝等は小栗の臣下にあらず、ただ知行所の村役人と百姓たるに過ぎざるに、身命を賭してその地頭の為に尽せる赤誠は累代食祿を食む家臣と雖も遠く及ばざる所なり。汝等の赤誠は地下にある上野介も満足する処ならん。
三左衛門は璽今(こののち)苗字中島を改めて誉田と称すべし。これは汝等の赤誠を嘉したる当藩の敬意なり、との有難き恩命を蒙り、面目を施し帰村したり。よって三左衛門は苗字を誉田と称し名を三平次と改む。
↑秦氏に取り込まれたのであった。
小栗一族の蜷川新氏によると
小栗夫人は会津戦争後、東京に戻り深川の三井家の大番頭三野村の邸に養われ、その邸に於いて逝去した。
上野介がギリギリの所で頼ったのは会津藩。
幕末の会津藩を象徴する人物に秋月悌次郎が居る。
江戸から引き揚げる際に駿河台の小栗宅に上野介を訪ねている。
悌次郎は薩摩同盟を成立させた立役者。
見事な工作で北と南の異質な藩を結び付け過激な長州を京都から追放した。
悌次郎は京都でもてはやされたため藩内から疎まれ蝦夷地の代官に左遷される。
薩摩が長州と結び会津が放り出された時、悌次郎は急遽都に呼び戻されている。
しかし、旧知の西郷と面会出来ず会津藩は鳥羽伏見で酷い敗北を喫し虚しく帰郷。
悌次郎は越後を駆け巡り河井継之助と画期的な連帯。
奥羽越列藩同盟を誕生させた。
幕府老中坂倉勝静と小笠原長行は会津に身を寄せ、大鳥圭介、古屋佐久左衛門も参戦。
↑京都で起きていた事を知る者達は会津に集結した、と。
悌次郎は晩年、九州熊本の旧制第五高等中学校の教授に。
同僚のラフカディオ・ハーンに「神のような人」と言わしめている。
↑そんな凄い人が会津に居たら会津が息を吹き返すから、熊本に取り込んだか。
薩長の狙いは会津藩を叩く事。
籠城した会津藩兵に一ヶ月に渡る砲撃を加えた。
皆殺し作戦である。
場内には婦女子もおり地獄であった。
最終的に会津藩兵の死者は三千余人を数えた。
町民や農民を加えれば、これを遥かに上回るに違いない。
この籠城戦で驚く事は薩長軍参謀に和平の動きがまるで無かった事。
相手は食糧、弾薬が欠乏し落城は目前。
しかし、これでもか、これでもか、と砲撃を加えている。
土佐の板垣退助も参謀として会津に居た。
が、会津藩からの決死の助命嘆願でやっと腰を上げている。
士道の欠如である。
この時の会津藩使者も悌次郎。
悌次郎は変装して米沢藩陣営に駆け込み、両手を縛られて土佐の陣営に出頭。
悌次郎は主君の助命と婦女子、老人の無罪放免を条件に降参する事を申し出て一ヶ月に及ぶ会津の戦いに終止符を打った。
蜷川新の『明治前後の政争と小栗上野介の死』の序文は会津人山川健次郎の筆である。
健次郎は白虎隊士として参戦。
戦後、アメリカに留学し東京帝大総長となった。
明治戊辰の年、旧幕臣小栗上野介の内室、は誕生して久しからぬ一女児を伴い予が親戚横山主税常盛が会津の邸に寄寓せり、予、横山家の人々の談により、内室がその領地上野国権田の陣屋より避難し新潟を経て会津へ来るまで、ひとえに辛苦を嘗めし状態を聞き、同情にたえざりき。その後、小栗氏の虐殺、またその人となりを知るに及び、小栗氏に対する同情益々深きを加う。
小栗氏は徳川幕府の末造に於いて、その識見手腕、天下に匹儔なかりしなり。その廃藩置県を主張せるがごとき、横須賀の造船所を創建せるがごとき、識見手腕の一斑を見るべく、その他、外交に経済に、その国家に貢献せしものはなはだ多し、氏の捕らえられるや、一回の訊問無く、河原に引き出し、荒薦に座せしめ、縛首の刑に処せられしという。これけだし武士を遇するの道を知らざる殲」徒輩の蛮行なりしなり。小栗氏の陣屋に武器多かりしを以て彼等は小栗氏の罪過とせりという。
武家に武器あるは、さながら商家に商品あるが如し。何ぞこれをもって罪とすべけんや。当時、世人は小栗氏が強硬なる長州征伐論者なりしにより、この奇禍に罹れりと言えり。予この説の当否を知らず。友人蜷川博士、小栗氏の伝を著し、序文を予に求む。交誼上、辞すべからず。よって所懐を述べて序文に代う。
昭和三年八月
男爵 山川健次郎
この一文に上野介と会津藩の関係が明記されている。
↑武士を遇するの道を知らざる徒輩、て誰の事なんでしょうね〜。
今日はここまで。
6時に畑へ。
サツマイモを収穫。

昨年は一株に1個しか出来なかったのを考えると一株でこれだけ採れれば上出来。
7時に帰宅後、シャワーと洗濯。
ベランダガーデニングの水遣りを済ませたら10時から読書と調べ物。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書と調べ物。
17時半から夕食作り。

ピザ、サワークリームサラダ、味噌汁、柿、チーズ竹輪、ウォッカ梅酒ロック。
19時に食べる事に。
歩数計は6192。
充実した一日だった。